橋爪四郎とは?競泳や記録、古橋廣之進との関係やエピソードを解説!

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ヘルシンキオリンピック競泳銀メダリストの橋爪四郎について解説します!

共に戦後水泳界の黄金期を築いた永遠のライバル、古橋廣之進との関係やエピソード、記録も紹介します。

橋爪四郎とは

1928年、和歌山県生まれ。中学校卒業後、奈良県の靴下工場で工員となります。その後、日本大学に入学、古橋廣之進とはライバル関係になりました。

ロサンゼルスで開催された全米選手権では二人で新記録を互いに更新します。

ヘルシンキオリンピックでは銀メダルを獲得し、水泳引退後はスイミングスクールの経営に携わりました。

 

古橋広之進に見出される

橋爪は中学卒業後、靴下工場で働いていましたが、たまたま琵琶湖一万メートル遠泳の優勝者による水泳講習会の広告を見つけて参加します。

その時やって来た指導者とは、のちにライバルとなる古橋廣之進でした。

 

日本大学への入学

古橋は、橋爪のスマートな泳ぎと一メートル80センチの長身に将来性を感じ、「泳ぎながら勉強しないか」と橋爪を誘いました。

橋爪は将来に何の希望も持っていなかったため、これをチャンスと親にも職場にも相談することなく、すぐさま東京行きを決意します。

当時は9月入学制度もあったので、橋爪はすぐに水泳部へ入部しました。

古橋とはライバルに

橋爪は、古橋とライバル関係になります。

敗戦国の為参加が認められなかった1948年のロンドンオリンピックにぶつけて、同日に行われた日本選手権大会では、熾烈な戦いとなりました。

千五百メートル自由形で、橋爪が18分37秒8、古橋が18分37秒0とわずか0.8秒差のデッドヒートとなります。

国際水泳連盟に加入できていなかったために、非公認記録となりますが、いずれも世界記録を更新していたこともあり、会場は大いに盛り上がりました。

 

ロサンゼルスの全米選手権

1949年6月に日本が国際水泳連盟に復帰すると、橋爪たちは8月のロサンゼルス全米選手権に招待されました。

この大会でも橋爪は古橋とお互いに記録を更新し合います。

橋爪は、初日の千五百メートル予選のA組で18分35秒7の世界記録を出しました。

これは前年に古橋が出していた18分37秒0の未公認記録を更新し、世界記録になります。

しかし、続いて古橋がB組で出場すると、さらに速い、18分19秒0の記録を出し、橋爪の世界記録をすぐさま更新してしまいました。

ヘルシンキオリンピック

1952年のヘルシンキオリンピックでは、橋爪は不調の古橋に代わって金メダル獲得を期待されていました。

予選でも18分34秒0の自己最高タイムを記録し、本人含め周囲も優勝を確信していたそうです。

しかし、橋爪は千メートルまで予選よりも速いペースで泳いだにもかかわらず、千二百メートルのところでコンノに抜かれ、2位となります。

橋爪は銀メダル獲得という偉業をなし遂げましたが、表彰台ではうつむいてしまいました。

 

古橋とは親友だった

世間では2人はライバルのように言われていましたが、実際はお互いのよき理解者でした。

古橋は中学時代の事故により左手の中指を一部失っていたために変則泳法で、一見すると力任せの泳ぎ方で、日本大学の水泳部の入部試験でも冷ややかな対応をされます。

しかし、橋爪は古橋の泳法に関して「水中で見れば非常に合理的な泳ぎ方」と言って理解を示しました。

 

誰にも見せなかった銀メダル

橋爪は、ヘルシンキオリンピックで銀メダルを獲得しましたが、負け知らずだった古橋が体調不良で最下位に終わったのを慮って、銀メダルを決して誰にも見せませんでした。

ちなみに橋爪と古橋は60回勝負をして、橋爪が好成績を出して勝ったのはこの一回だけだったそうです。

 

その後

水泳選手を引退するとスイミングスクールを開き、水泳のすそ野を広げるべく、水泳の普及に邁進しました。