戦後直後の水泳界で活躍し、「フジヤマのトビウオ」と称された古橋廣之進について解説します!一人で何度も塗り替えた世界記録や伝説など、名言や身長、エピソードも紹介します。
古橋廣之進とは
1928年、静岡県に生まれました。
小学生時代から水泳で頭角を現し、戦後すぐ国内外の大会で世界記録を何度も更新します。おり悪く、ベルリンオリンピックは敗戦国の為不参加、次のヘルシンキオリンピックではメダル獲得はなりませんでした。
引退繊維会社に就職しますが、指導者として再び水泳に関わるようになります。その後、日本大学教授、水泳連盟会長、日本オリンピック委員会会長を歴任。
2009年に世界水泳選手権のため滞在していたローマで亡くなりました。
豆魚雷と呼ばれる
古橋の通った小学校は、伝統的に水泳が盛んで、浜名湖での遠泳が行われていました。
古橋は4年生の時に水泳部に入部し、6年生の時、100mと200mの自由形で学童新記録を樹立しました。そして新聞では豆魚雷と異名をとります。
水泳を中断
小学校卒業後、古橋は中学校へ進学しますが、太平洋戦争のため、水泳は中断せざるを得なくなります。
中学卒業後は、戦争が終わったら当時日本が勢力を広げていた南方で一旗揚げようと考え、農業を学ぶために日本大学へ進学します。
しかし、大学進学後も太平洋戦争が続いていたため、あいかわらず動員の日々でした。
水泳部へ入る
古橋が大学2年の時に終戦となり、大学に戻ることになります。
運動部が活動を再開すると、古橋は身長174センチと当時としては大柄だったために、空手部からも誘いが来ました。
しかし、浜名湖での活躍を知る友人の勧めもあり、古橋は水泳部へ入ることにします。
水泳を中断して4年も経っていましたが、水泳のことは片時も忘れなかったそうです。
豆魚雷の復活
水泳部に入るには試験があり、古橋は「変わった泳ぎ方をする」と言われながらも入部を認められます。
そして古橋は1946年の第一回国民体育大会に先輩と連れ立って出場し、400mでは優勝、800mは二位になります。
そして1947年の日本選手権では世界記録を出しましたが、日本の水泳連盟が国際水泳連盟から除籍されていたので公式には認められませんでした。
のちのライバルとの出会い
古橋は、国体の後、大学OBから琵琶湖の一万メートル遠泳大会へ参加して欲しいと頼まれます。
遠泳大会で優勝すると今度は、水泳の講習会の依頼を受け、数か所の小中学校をまわりました。
その時に出会ったのが橋爪四郎で、フォームのきれいさと体格の良さに古橋が日大へ誘うと快諾し、すぐさま上京します。
その後、古橋の読み通り、橋爪は古橋の最大のライバルとなりました。
参加できなかったロンドンオリンピック
1948年のロンドンオリンピックは、敗戦国のため、日本は参加を認められませんでした。古橋は最初からあきらめていたそうですが、水泳連盟会長の田畑政治は、オリンピック参加のために奔走します。
しかし、ロンドンからの電報には、「プリンス・オブ・ウェールズを忘れない」と、日本軍が戦争で沈めた戦艦の名前が書いてあったそうです。
驚くべき企画
そこで田畑は、日本の水泳の実力を世界に認めさせようと、驚くべき企画を立てます。
ロンドンオリンピックの水泳のプログラムと同日同時刻に全く同じ内容で日本選手権大会を開催することにしたのです。
田畑政治との関係
田畑政治は、古橋とは同郷で本人も水泳選手だったため、豆魚雷と呼ばれていたころから古橋の存在を知っていました。
田畑は1947年に行われた日本選手権で世界記録を出した古橋に「よくやった、これからも頼むぞ」と激励します。
そして、その後も古橋含め水泳選手たちをバックアップしていきます。
泳ぐたびに世界記録を更新
ロンドンオリンピックに出るかわりに開催された日本選手権大会で、古橋は400m自由形4分33秒4、1500m自由形で18分37秒0を出します。
この記録はロンドンオリンピック金メダリストの記録および当時の世界記録を上回っていました。
海外からは記録の正確性を疑われるほどの大記録でしたが、アメリカ水泳連盟の監督からは祝福の電報が届きます。
そして9月の学生選手権の400m自由形では自己記録を更新する4分33秒0、800m自由形では9分41秒0を出し、これも世界記録を越えていました。
ロサンゼルスの全米選手権に参加
その後1949年6月に日本の国際水泳連盟復帰が認められると、ハワイから遠征の誘いが来ます。
しかし、アメリカの水泳連盟へ打診すると、古橋や橋爪四郎などの選手6名が8月にロサンゼルスで行われる全米選手権に招待されることになりました。
全米選手権で優勝
古橋は、400m自由形4分33秒3、800m自由形9分33秒5、1500m自由形18分19秒0で世界新記録を樹立します。
数日続いた選手権では、古橋と橋爪が毎回泳ぐたびに世界記録を更新したため、日を追うごとに観客が増えて行きました。
ヒーローになる
日系人、アメリカ人問わず、控室に押しかけ、チョコレートや万年筆をポケットにねじ込まれ、別便で送るほどの量になりました。
そして、日本の水泳チームの活躍に、日の丸の旗を掲げてのオープンカーでパレードが行われることになります。
アメリカの新聞には競技の前に掲載された日本の水泳選手に対する揶揄への謝罪文が掲載され、古橋は「フジヤマのトビウオ」と呼ばれました。
引退まで
南米への遠征
1950年、日本人が多く移民している南米から、古橋の泳ぎが見てみたいという要望があり、80日間の遠征を行うことになります。
古橋は、その途中、現地では水を飲むなと言われていたにもかかわらず、ホテルのボーイに「諸読してあるから大丈夫」と言われ、コップ一杯の水を飲んでしまいます。
そして、これがもとでアメーバ赤痢に感染してしまいました。
アメーバ赤痢の後遺症
大学卒業後は家庭の事情もあり、古橋は繊維会社に就職して水泳を続けました。
しかし、前年に罹ったアメーバ赤痢は後遺症が残り、下痢と疲労感に悩まされ続けます。
8月の日米対抗戦では、これまで負け知らずだったにもかかわらず、古橋はコンノに負け、はっきりと不調を意識しました。
日本水泳選手権大会の200m自由形で2分7秒6の世界記録を出しましたが、これが世界と名の付く最後の記録になりました。
ヘルシンキオリンピックへの出場
古橋自身はオリンピック出場すら危ぶんでいましたが、かろうじて日本代表に入ります。
そして、それまでの実績から主将に任じられ、しかも16年ぶりのオリンピックとあってかなりの期待を日本中からかけられてのオリンピック出場でした。
古橋は不敗どころか新記録を出し続けていたため、周囲からは「予選、準決勝では力を抜いているのだ」などと言われますが、精一杯の実力でした。
最後は8人中8位の成績で終わり、水泳競技からの引退を決意します。
古橋廣之進の伝説・エピソード
感電して死にかける
古橋が小学校5年生の時、掃除中に感電し、体を200ボルトの電流が流れました。
学校から家へ「廣之進が死んだ」との連絡が入り、母親が駆け付けましたが、古橋はしばらく気を失っただけで助かります。
心臓とは逆の右手で感電したことも一因ですが、古橋はもともと心臓が強かったからこそ助かり、その後も水泳で新記録を出し続けることができたと言われています。
事故で中指を失くす
古橋は中学生の時に学徒動員された工場で機械に左手の中指を挟む事故にあいます。
指はかろうじてつながっていましたが、医務室で切り離されてしまいました。
古橋は中指を失くしたことで「もう水泳はできない」と思ったそうです。
しかし、中指がないことによる水漏れを補うために、左腕を鍛え、独特な泳法を試みて成功します。
古橋廣之進が残した名言
古橋の学生時代は、戦後まもなくで物資が乏しく、工夫して食事を用意していたものの摂取カロリーだけ見れば、すでに死亡しているレベルでした。
しかし、集中して朝から晩まで毎日泳ぎ続け、偉業を成し遂げます。