数々の困難を乗り越え、女性初の金メダリストとなった前畑秀子。
56年ぶりの東京オリンピックを目前に控え、朝ドラにしようという動きがあります。彼女の記録と名言について解説します。
前畑秀子とは?
1914年、和歌山県に生まれました。幼少期から水泳が得意でしたが、貧困や両親の死去を乗り越えて、苦労して水泳を続けました。
2回オリンピックに出場し、ベルリンオリンピックでは、日本で初めての女性金メダリストとなります。引退後はスイミングスクールを開いて、水泳の普及に努めました。
小学生のころから水泳が得意
1914年、前畑は豆腐店の二女として和歌山県に生まれます。前畑の家の近くにはゆったりとした紀ノ川が流れ、川は生活の一部でした。
前畑は、幼児のころは母親の背中につかまって水につかりながら川を渡ったり、父親の背中に負ぶわれて飛び込みをしたり、川に親しんで育ちます。
前畑は、そのせいか泳ぎが得意で、小学4年の時に水泳部ができてすぐに入部しました。
そこで5年生の時に学童記録を出し、6年生ではなんと女子の新記録を達成します。
勧められて高等科へ進学
前畑の実家は、経済的に娘に水泳を続けさせることが難しい状況でした。
前畑は家の状況をよくわかっていたので、小学校を出て実家の豆腐店を手伝うつもりでいました。
しかし、校長が直々に家に出向き、「オリンピックに出場できるほどの才能がある。ぜひ進学させて欲しい。」と、高等科への進学を勧めます。
実力を証明する
高等科へ進学した後は、2年生の時に、ハワイで行われた汎太平洋女子オリンピック大会の選手選考会に出場します。
初めて泳いだ二百メートル平泳ぎでなんと当時の日本記録保持者を数メートル引き離して日本記録を更新してしまいました。
さらに本番のハワイでは百メートル平泳ぎで優勝、そのすぐ後の二百メートルでは世界記録保持者のヒントンに抜かれて2位になります。
椙山女学園への編入
前畑は、高等科卒業後は、いよいよ実家に戻って家事手伝いをしようと考えていましたが、名古屋の椙山女学園での室内プールの初泳ぎに招待されます。
校長の椙山正弐は、女子も体育教育に力を入れるべきという考えで、学園に日本初の室内プールを作りました。
前畑の泳ぎを見た椙山校長は学園への編入を熱心に勧め、女学園に編入することになります。
椙山校長の援助
前畑は学費を心配しますが、椙山校長は授業料などの費用はすべて免除しました。
これは実は通っていた高等小学校の校長が事前に椙山校長に手紙を書いて仕組んだもので、おかげで前畑は生活の心配をすることもなく、水泳に打ち込めるようになります。
両親の死去
前畑は何不自由なく、水泳の練習に明け暮れていましたが、実家の母親が亡くなったという知らせが入ります。
そして、もともと体の弱かった父親も後を追うように亡くなりました。
前畑は、実家に女手がないことを心配して、家に帰って家業を継ぐしかないと水泳を辞める決心をし、実家に帰ります。
日本の前畑
しかし、椙山校長が全校集会で「前畑はもはや日本の前畑だ」と呼びかけると、呼び戻すための旅費の寄付が集まりました。
実家では親戚の案で二十歳だった兄に嫁を貰い、女手の心配はなくなります。
1932年ロサンゼルスオリンピックへの出場
周囲からの応援により、椙山女学園戻って水泳を再開した前畑ですが、両親の死去のショックとトレーニング不足で成績が伸び悩んでしまいます。
スランプを脱するためにがむしゃらにトレーニングに励みました。
冬はグランドを何周も走り、春になると寒くてもプールのそばで風呂を焚いて、水泳の練習に明け暮れました。
するとようやくスランプから脱出でき、日本代表にも入ることができました。
1932年のロサンゼルスオリンピックでは無我夢中で泳ぎましたが、ほんの十分の一秒の差で2位になります。
水泳を辞めようか悩む
前畑は、銀メダルを獲得したにもかかわらず、周囲からなぜたったの10分の一秒勝てなかったのかと責められます。
実は、前畑はオリンピックが終わって女学園を卒業したら、引退して結婚するつもりでいました。
当時は「女性は18歳で結婚する」というのが一般的な価値観だったのです。
悩んだ末、椙山校長に相談すると、椙山女学園で専門学校へ進学させてもらえることになり、次のオリンピックを目指すことにしました。
4年後のベルリンオリンピックに向けて毎日二万メートル泳ぐなど、猛特訓の日々が続きました。
ベルリンオリンピックへの出場
前畑はベルリンオリンピックに相当な覚悟で挑みました。
船上の日記には「メダルを取れなかったら、帰りの船から飛び降りる」と書かれていたそうです。
前畑は、お守りの中のお札を小さくたたんで飲み込み、決勝戦に挑みました。
ゲネンゲルとの熱戦
前畑は、二百メートル平泳ぎでドイツ代表のゲネンゲルと接戦になります。
ターンから最期の50メートルはデッドヒートで、ワンストロークの差で前畑が優勝しました。
この熱戦の実況はNHKの河西アナが「前畑がんばれ!前畑がんばれ!」と連呼したことで有名で、ラジオの生中継に日本中が熱狂しました。
水泳引退後
夫を亡くす
ドイツから帰国すると、23歳の前畑は水泳を引退し、お見合いで医者の卵と結婚します。
その後2人の子どもを授かり、夫の開業した医院で看護助手として働きました。
しかし前畑が45歳、夫が50歳の時、元気だった夫が突然、脳溢血で亡くなります。
椙山女学園で働く
そこでまたもや椙山女学園の校長が前畑に救いの手を差し伸べました。
医務室職員と兼任で水泳のコーチをしないかと声をかけてくれたのです。
そして誘われるまま女学園で働き始めた前畑ですが、水泳の講演活動で、学校の業務に穴を開けるようになったため、女学園を辞めることにしました。
スイミングスクールの開業
その後、名古屋市に温水プールができると、前畑はスイミングスクールの開校を市に持ち掛けます。
はじめは相手にもされませんでしたが、「市民の健康のために」と市を説得し、開校の同意を得ます。
最初は幼い子供たちや母親たちへ教えることが中心でしたが、軌道に乗るとオリンピックを目指すクラスを作り、指導に当たりました。
このスイミングスクールからはオリンピック候補者も出て、その高い指導力で有名になります。
最期まで水泳に関わり続けた晩年
晩年も精力的に水泳指導を行っていた前畑でしたが、1983年、69歳の時にプールでの指導中に倒れます。
しかし、持ち前の粘り強さで1年間の休養を経て、再びプールに戻ることができました。
そして、1995年に80歳で亡くなるまで水泳の指導を続けます。
エピソード
焼けた金メダル
前畑は講演会に金メダルを持参していましたが、これは模造品でした。
ベルリンオリンピックで獲得した金メダルは、椙山校長が貴重なものだからと自宅の金庫に保管をしていました。
残念なことに校長の自宅が空襲で焼けてしまい、メダルもなくなってしまいます。
校長はほかの金メダリストからメダルを借りて複製したものを前畑に返しました。
名言
ベルリンオリンピックでゲネンゲルと接戦になった時、隣でだれが泳いでいるかなんて忘れてしまって、歓声の中を一人で泳いでいるようだったそうです。
朝ドラ
NHK朝ドラ推進活動について
前畑秀子の出身地、和歌山県橋本市は、オリンピック東京開催に合わせて、女性初の金メダリストである前畑秀子の生涯を朝ドラにしようと誘致を計画しました。
市はホームページを立ち上げて、署名活動やイベントなどが行っています。