鳩山一郎は第52・53・54代内閣総理大臣を務めた人物です。
自由民主党の初代総となった人物で、鳩山一郎の起こした鳩山内閣から与党第1党を自由民主党、野党第1党を日本社会党が占めた55年体制が始まりました。
第93代内閣総理大臣を務めた鳩山由紀夫は、鳩山一郎の子孫にあたります。
そんな鳩山一郎の生涯、鳩山内閣、公職追放、子孫や家系図について解説していきます。
鳩山一郎の生い立ち
鳩山一郎は明治16年(1883)東京府議会議員であった父・鳩山和夫と英語教師であった母・春子から誕生しました。
明治28年(1895)に高等師範学校附属小学校を卒業、その後、高等師範学校附属中学校、旧制第一高等学校を卒業し、明治40年(1970)東京帝国大学法科大学英法科を卒業すると、父・鳩山和夫の弁護士事務所に就職します。
明治41年(1908)には鳩山一郎は25歳の時、衆議院議員秘書課長であった寺田栄の長女・寺田薫と結婚しました。
明治44年(1911)父・鳩山和夫が亡くなると、大正元年(1912)父・鳩山和夫の補欠選挙で東京市会議員に初当選し大正4年(1915)には衆議院議員となります。
この頃、鳩山一郎は政治主導であった伊藤博文によって結成された立憲政友会の議員として活動していました。
立憲政友会の分裂、政友本党の設立
大正10年(1921)立憲政友会の第3代総裁であった原敬首相が暗殺されるといった事件がおきます。
原敬首相が暗殺されたことによって暫定的措置として同じく立憲政友会であった高橋是清が第20代内閣総理大臣となりました。
こうして第20代内閣総理大臣となった高橋是清は横田千之助らと共に党の主導を行いますが、亡き原敬の後継者とされていた床次竹二郎、元田肇らは次第に高橋是清、横田千之助らに不満を抱くようになります。
大正11年(1922)高橋是清首相は内閣改造を企画します。
しかし、この内閣改造に対して中橋徳五郎文部大臣・元田肇鉄道大臣・山本達雄農商務大臣からは反発が大きく内閣総辞職を主張されてしまいます。
こうして高橋是清内閣は終わり加藤友三郎によって組閣がされました。
衆議院の第一党であるのも関わらず、立憲政友会が政権を失ってしまったのは党を主導していた横田千之助が原因とされ、立憲政友会内部で対立が起こり、政友本党という新党が設立されました。
大正13年(1924)鳩山一郎は、この政友会分裂の際、政友本党に参加していましたが、大正15年(1926)には立憲政友会に復党しています。
昭和2年(1927)に発足された田中義一内閣では、田中義一に気に入られ内閣書記官長に任命されます。
統帥権干犯問題の主張
昭和5年(1930)第58帝国議会で列強海軍の補助艦保有量の制限を目的とした国際会議であるロンドン海軍軍縮条約の議論が行われました。
しかし陸海軍の兵力を決めるはずの天皇を差し置いて、内閣が兵力数を決めるのは、憲法違反であり天皇の統帥権の干犯に当たるとして鳩山一郎は濱口内閣を攻撃します。
後に鳩山一郎は統帥権干犯問題を主張したことが原因で、国軍最高司令官総司令部(GHQ)から公職追放をなされることとなります。
文部大臣に任命
昭和6年(1931)の犬養内閣では文部大臣に任命されます。
その後、昭和8年(1933)京都帝国大学でおきた滝川幸辰の学説を非とした思想弾圧事件である滝川事件では、鳩山一郎は滝川幸辰の辞職を京都帝国大学に要求します。
しかし、京都帝国大学に要求は拒否されると、文官分限令を用いて一方的に滝川幸辰を処分に追い込みました。
この事件は戦後に問題視されるようになり批判を受けます。
昭和9年(1934)株式売買をめぐる帝人事件の汚職を疑われ辞職となります。
2度目の立憲政友会の分裂
昭和12年(1937)には前田米蔵・島田俊雄・中島知久平とともに総裁代行委員を務めましたが、中島知久平が独断で政友会革新同盟を結成しました。
この中島知久平の行動に対し、鳩山一郎は反発し、これによって立憲政友会は鳩山一郎、久原房之助、三土忠造、芳澤謙吉らを中心とした正統派と中島知久平、前田米蔵、島田俊雄からなる革新派が対立となりました。
日本自由党の結成
一般的に翼賛選挙と呼ばれる21回衆議院議員総選挙では非推薦で出馬、無所属で当選します。
しかし、翌年の昭和18年(1943)には当時の東條内閣を批判したため軽井沢へ隠遁となりました。
昭和20年(1945)鳩山一郎は軽井沢から上京すると、立憲政友会の正統派であった河野一郎、芦田均らを中心に日本自由党が結成されます。
この日本自由党は「ポツダム宣言を実践し、軍国主義的要素を根絶」、「自由な経済活動を促進」などを掲げ活動を行っていました。
GHQによる公職追放
第二次世界大戦終結後の昭和21年(1946)に行われた第22回衆議院議員総選挙では日本自由党が第1党となりましたが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって戦前の統帥権干犯問題を指摘され、軍国主義台頭に協力したということから公職追放となりました。
またナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーの行政政策を成功と述べたこと、戦後のアメリカを批判したことが新聞に掲載されていたことなども公職追放の理由とされています。
その後、昭和26年(1951)鳩山一郎は脳梗塞で倒れます。
内閣総理大臣に就任
第22回衆議院議員総選挙では、日本自由党が第1党となり首相就任目前で公職追放となったこと、病気を患ったことなどから鳩山一郎に同情が集まり、昭和29年(1954)12月、第52内閣総理大臣に就任します。
在任中には、日本民主党と自由党の合同を成し遂げ自由民主党を結成しました。
これによって与党第1党を保守勢力である自由民主党が占め、野党第1党を革新勢力である日本社会党を占めた55年体制が確立されます。
また日ソ国交回復、エネルギー政策では原子力基本法の提出などを行います。
昭和31年(1956)日ソ共同宣言でソビエト連邦と国交を回復させると、内閣総理大臣を辞職し政界を引退します。
引退後は友愛青年同志会を結成、育成するなどしていましたが、昭和34年(1959)に77歳で亡くなりました。
鳩山一郎の子孫
鳩山一郎には姉と弟がおり、自身と妻・薫との間に6人の子供がいました。
鳩山家の家系図を見てみると、政治家、官僚、企業家などの様々な経歴があり、鳩山家は非常にエリートな家系であったことが分かります。
姉・鳩山カヅ
立憲政友会の総裁である鈴木喜三郎に嫁ぎます。
弟・鳩山秀夫
民法学者で、妻との間に道夫が誕生します。
甥・鳩山道夫
鳩山秀夫の長男で、ソニー常務取締役兼中央研究所所長となりました。
鳩山一郎の妻・薫
共立女子大学学長となります。
長男・威一郎
大蔵官僚、参議院議員、外務大臣を務めます。
ブリヂストン創業者・石橋正二郎の長女・安子を妻に迎えました。
孫・鳩山和子
長男・威一郎の娘で、井上多門に嫁ぎます。
孫・鳩山由紀夫
長男・威一郎の息子で、第93代内閣総理大臣、2代・7代民主党代表となった人物です。
孫・鳩山邦夫
長男・威一郎の息子で、元法務大臣、総務大臣となった人物です。
長女・百合子
古沢潤一(日本輸出入銀行総裁)に嫁ぎます。
孫・洋子
長女・百合子の娘で、増岡正剛に嫁ぎます。
次女・玲子
鳩山一郎の次女で、鳩山一郎の甥・鳩山道夫に嫁ぎます。
三女・節子
鳩山一郎の三女です。
四女:恵子
鳩山一郎の四女で、山中繁に嫁ぎます。
五女・信子
鳩山一郎の五女で、渡邉暁雄(指揮者)に嫁ぎます。
最後に
鳩山一郎は日本自由党の結成するも、首相就任目前のところでGHQによって公職追放となりました。
しかし、公職追放が解かれ内閣総理大臣に就任するとGATT、原子力委員会の設置、売春防止法の公布、日ソ共同宣言調印、国際連合加盟などを行います。
昭和30年(1955)原子力委員会の設置、原子力基本法の提出によって、現在、原子量発電が用いられるようになりました。