聖武天皇とは奈良時代、第45代天皇となった人物です。
即位した際、平城京では天災や疫病の流行、貴族による反乱などが相次いで起こりました。
仏教を深く信仰していた聖武天皇は、国家鎮護を目的として国分寺、国分尼寺また東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)の建立を命じます。
そんな、聖武天皇の生涯や活躍した時代、建立した寺や東大寺盧舎那仏像について解説していきます。
聖武天皇の生い立ち
聖武天皇は奈良時代にあたる大宝元年(701)父・文武天皇と母・藤原宮子の第一子として誕生しました。
しかし、7歳となった慶雲4年(707)6月15日に父・文武天皇が亡くなります。
残された母・藤原宮子は夫・文武天皇が亡くなったことで心的障害に陥ったため、聖武天皇は母・藤原宮子と長らく会うことはできませんでした。
この時、まだ聖武天皇は7歳であり亡き父・文武天皇の後を継ぐには幼すぎたため、父・文武天皇の母・元明天皇が聖武天皇の代わりとして中継ぎ天皇となり即位します。
第45代天皇となる
その後、和銅7年(714)6月25日に聖武天皇は元服を迎え、即位することはできましたが、病弱であったため、また皇親と聖武天皇の母・藤原宮子の実家、藤原氏との対立もあったため即位は見送られました。
よって、元明天皇の後継者として父・文武天皇の姉・元正天皇が皇位を継ぐこととなります。
その後、聖武天皇が24歳になった神亀元年(724)3月3日、元正天皇に皇位を譲られ第45代天皇となりました。
長屋王と対立関係となる
聖武天皇が即位した頃、皇親勢力を代表する長屋王という人物が政治権力を掌握していました。
当時、天皇となれる人物は両親ともに皇族であるという人物が一般的に即位することができました。
しかし、聖武天皇の母・藤原宮子は藤原家出身の娘であり皇族ではありません。
藤原家は皇族との関わりを深めるために娘である藤原宮子を天皇の妃とさせたのです。
そのため長屋王は聖武天皇が即位することに反対していたとされます。
また長屋王自身、天武天皇の息子・高市皇子の長男であり皇族の血を引いていたため皇位継承の有力候補として名前があげられていました。
このようなことから聖武天皇と長屋王は対立関係となります。
藤原家出身の光明子が聖武天皇の妃となる
一方、聖武天皇の母・藤原宮子の実家である藤原家は、天皇家との関わりをもっと深めるために藤原不比等と県犬養三千代の娘・光明子を、聖武天皇の妃にさせようと考えます。
藤原家と天皇家の関係が深まることを危惧していた長屋王は、藤原家出身の光明子が立后することに反対していましたが、神亀6年(729)に長屋王の変がおき、長屋王は自害したため光明子は、聖武天皇の妃となることができました。
長屋王の変は、光明子を妃とさせるために藤原不比等の息子である藤原武智麻呂、藤原房前、藤原房前、藤原麻呂が仕組んだものとされています。
疫病の流行や社会情勢の混乱などが起こる
その後、天平9年(737)になると平城京内では疫病が流行し始めます。
この疫病によって長屋王の変を仕組んだとされる藤原武智麻呂、藤原房前、藤原房前、藤原麻呂が亡くなり、他にも政府高官のほとんどが病死しました。
このため聖武天皇は急遽、長屋王の弟・鈴鹿王を知太政官事に任命し、政治体制を整えます。
さらに天平12年(740)になると政権に不満を抱いていた藤原広嗣が大宰府から平城京に向けて挙兵するといった藤原広嗣の乱が起こります。
この乱は結局、朝廷軍によって鎮圧されましたが、この間、聖武天皇は藤原広嗣の乱が鎮圧されたという報告も待たずに関東へと行幸をはじめ、そのまま平城京には戻らず同年12月15日に恭仁京へと遷都を行いました。
その後約10年間、聖武天皇は、疫病や社会混乱が起こる度に国家鎮護を目的とし遷都を繰り返し行うこととなります。
国分寺建立の詔を発す
天平年間に入ると災害や疫病が多く発生したため仏教を深く信仰していた聖武天皇は、天平13年(741)、各国に国家鎮護を目的とした寺を建立する国分寺建立の詔を発します。
この国分寺建立の詔は全国に発せられ国分僧寺と国分尼寺に分けられました。
この詔によって建立された東大寺は総国分寺、法華寺は総国分尼寺とされ、全国に建立された国分寺、国分尼寺の総本山となりました。
東大寺盧舎那仏像の建立の詔を発す
その後、天平15年(743)になると国分寺建立と同様に国家鎮護のため東大寺盧舎那仏像の建立の詔を発しました。
この東大寺盧舎那仏像とは現在目にすることができる奈良の大仏です。
この建立には260万人にも及ぶ民が作業に関わったとされ、また現在の価値で約4657億円相当の建造費がかかったとされています。
これまでの間、聖武天皇は国家鎮護のため遷都を繰り返し行っていましたが、官民から強く遷都を反発されることとなり最終的に平城京へと戻ってきました。
安積親王が亡くなる
天平15年(743)、聖武天皇は墾田永年私財法を制定します。
この墾田永年私財法とは、自身で新しく開拓した土地は永年私財化を認めるといった法です。
天平16年(744)聖武天皇と夫人・県犬養広刀自の息子・安積親王が亡くなります。
聖武天皇は、妃・光明子のみならず、県犬養広刀自も夫人としていました。
聖武天皇には妃・光明子との間に、阿倍内親王(後の孝徳天皇)基王、夫人・県犬養広刀自との間に安積親王、井上内親王、不破内親王がいましたが、基王は早くに亡くなってしまっていたため、安積親王が唯一の聖武天皇の男子の子供でした。
しかし、そんな安積親王が亡くなってしまったため、これによって聖武天皇には後継ぎの男子を失うこととなりました。
東大寺大仏の開眼法要を行う
天平勝宝元年(749)7月2日、聖武天皇には後継ぎとなる男子がいなかったため、妻・光明皇后の娘・阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位し太上天皇となります。
天平勝宝4年(752)4月9日になるとかねてから作業を進めていた東大寺大仏の大仏が完成したため東大寺大仏の開眼法要を行いました。
聖武天皇の最期
天平勝宝6年(754)には日本に来日した鑑真と妃・光明皇后とともに対面します。
しかし、その2年後の天平勝宝8歳(756)には天武天皇の2世王・道祖王を次期天皇とすると遺言を残し、56歳で亡くなりました。
まとめ
聖武天皇は深く仏教を信仰していたため相次ぐ災害や疫病、社会混乱を収めるために国家鎮護を目的に国分寺建立、東大寺大仏殿の建立の詔を発した人物でした。
聖武天皇亡き後、妃・光明皇后は聖武天皇の遺品や東大寺大仏の開眼法要で使用した道具などを正倉院に大切に保管しました。
今でも、聖武天皇の愛用品などは正倉院展で見ることができます。