徳三宝とは明治時代から昭和に活躍した日本の柔道家です。
柔道家で教育者でもある嘉納治五郎によって創設された講道館に明治39年(1906)に入門します。
猛稽古の末、徳三宝は柔道家・三船久蔵や柔道家・田畑昇太郎との名勝負でその名を全国に轟かせました。
全日本選士権に出場し、昭和7年(1932)に行われた第3回大会では3位に入賞するなどの成績を残しています。
そんな徳三宝の柔道の経歴や身長、嘉納治五郎との関わりについて解説していきます。
徳三宝の生い立ち
徳三宝(とくさんぽう)は明治20年(1887)12月12日、鹿児島県の徳之島で誕生しました。
小学校卒業後、鹿児島県立第二鹿児島中学校に入学した徳三宝は剣道、柔道に出会い、稽古に励みます。
その結果、全九州の中学柔道大会で優勝し、その名前を全国に轟かせる事となりました。
その実力を認めた鹿児島の第七高等学校造士館の佐村嘉一郎三段は、徳三宝に東京で柔道をすることを勧めると、徳三宝は上京し明治39年(1906)、講道館に入門しました。
嘉納治五郎との出会い
徳三宝が入門した講道館とは、柔道家でもあり教育者でもある嘉納治五郎が明治15年(1882)5月に創設した道場です。
嘉納治五郎は講道館を設立後、東洋で初めてのIOC(国際オリンピック委員会)の委員に就任し、東京オリンピック誘致に成功する人物で、後に「柔道の父」「日本体育の父」「スポーツの父」とも呼ばれることとなります。
講道館は明治42年以降は段位の発行、大会開催、講習会などの会場となりますが、戦前、戦時中は剣道の修道学院、空手の松濤館、大日本武徳会の武道専門学校(武専)とともに武道総本山として知られていました。
柔道を猛特訓
この講道館に入門した徳三宝は、1日100本を超える猛稽古などをし実力を身に着けました。
猛稽古の末、徳三宝は道場において最強を誇り、稽古中に姿勢を全く崩さない姿から「野中の一本杉」というあだ名がつけられていたとされています。
また徳三宝は柔道とは相手を投げる競技であり、受け身に優れていても投げることが上手くなければ意味がない。と考え、受け身の練習を殆どしなかったとされています。
実力をつけた徳三宝は柔道家・三船久蔵や田畑昇太郎などと名勝負を繰り広げ、その名を全国に知らしめることとなりました。
講道館を破門される
しかし、明治45年(1912)徳三宝に試合を申し込んできたブラジル艦隊の水兵15人を返り討ちにしたことが政治的な問題となり、講道館を破門されてしまいました。
ブラジル艦隊の水兵15人を返り討ちにしたことが破門の理由と考えられていますが、一方で、徳三宝が柔道において強すぎたため、周囲が妬み嘉納治五郎がかばいきれなくなったため破門となった。といった理由で破門されたとも考えられています。
全日本選士権に出場
破門された徳三宝でしたが、大正6年(1917)に破門を許されると、林岩三といった後輩の指導を行います。
また40歳を超えた頃には全日本選士権に出場したとされています。
昭和5年(1930)に行われた全日本選士権第一回大会では一回戦で負けたものの、昭和7年(1932)に行われた第三回大会では3位に入賞するなどの成績を残しました。
東京大空襲を受け亡くなる
昭和14年(1939)、日独伊三国同盟であるドイツ、日本、イタリアとイギリス、ソビエト連邦社会主義、連合国陣営であるアメリカとの間で第二次世界大戦が勃発します。
日本とアメリカの対立が激化となると、アメリカ軍は昭和17年(1942)4月18日、東京に初めて空襲を行いました。
昭和19年(1944)11月24日から終戦までの間で東京は106回も空襲を受けたとされています。
その東京大空襲の中でも最も死者数が多かったのは昭和20年(1945)3月10日とされており、徳三宝もこの空襲にあい昭和20年(1945)3月10日に58歳で亡くなりました。
身長
徳三宝は身長179㎝、体重98㎏であったとされ、非常に大柄な男性でした。
まとめ
徳三宝は明治から昭和にかけて活躍した柔道家でした。
そんな徳三宝は現在放送中の大河ドラマ「いだてん」に登場しています。
徳三宝を演じているのは芸人として活躍されている阿見201さんです。
また嘉納治五郎は俳優の役所広司さんが演じられています。