渋沢栄一とは幕末期から大正初期にかけて実業家として活躍した人物です。
渋沢栄一は500以上の企業設立に携わったとされ、「日本資本主義の父」と呼ばれています。
今回は渋沢栄一が設立に携わった企業や大学を一覧にしてご紹介いたします。
渋沢栄一の簡単な経歴
徳川慶喜に仕え、御勘定格陸軍付調役としてフランスのパリで行われた万国博覧会に出席します。
フランスに滞在していた渋沢栄一は、そこでヨーロッパの先進的な産業、軍備を見学し学びました。
日本に帰国後、静岡藩に出仕することが決まっていましたが、徳川慶喜から自らの道を進みなさいと言葉をかけられ、フランスで学んだ株式会社制度を生かし、明治2年(1869年)1月商法会所を設立しました。
その後は大隈重信の勧めにより同年10月から大蔵省に入省するも、大隈重信と対立し、明治6年(1873年)には退官します。
退官後は実業界に身を置くようになり、500以上の企業設立に関わりました。
このことから「日本資本主義の父」と呼ばれています。
また企業の設立だけではなく、社会貢献活動として大学の設立や病院の設立なども行いました。
渋沢栄一が設立に協力した大学一覧
実学教育を目的に
渋沢栄一が大学設立に携わった当時は、学問は社会で実際に活用されるような教え方はされていませんでした。
しっかり学問を学んでいても、実生活で役立つような教育はされていなかったのです。
渋沢栄一は社会で役に立つような学問を教えるべきだと、実学教育に力をいれるようになります。
そこで実学教育を目的とした大学の設立に携わるようになりました。
- 森有礼と共に商法講習所(現在の一橋大学)
- 大倉喜八郎と共に大倉商業学校(現在の東京経済大学)
- 学校法人国士舘
- 同志社大学
女性の教育を目的に
また当時は男尊女卑の考え方が残っていたため、女性が教育を受けることはあまりありませんでした。
女性にも教育や学問は必要であると考え、伊藤博文、勝海舟らと女性が教育を受けることを目的とした女子教育奨励会を設立します。
その後も女性が教育を受けることのできる場所として日本女子大学校、東京女学館の設立に携わりました。
渋沢栄一が設立に協力した会社一覧
明治6年(1873年)に第一銀行(現在のみずほ銀行)を設立して以降、渋沢栄一は多くの会社設立に携わってきました。
その数、合計500企業とされています。
渋沢栄一は渋沢同族株式会社という持株会社を持っており、澁澤同族株式会を中心とした数多くの企業は渋沢財閥と呼ばれるようになりました。
渋沢栄一が設立に携わった企業には家族や縁者も携わることとなりましたが、経営支配を考えていなかったため、長く家族や縁者が責任ある立場に立ち続けたのは第一銀行(現在のみずほ銀行)や澁澤倉庫などの限られた企業であったとされています。
渋沢栄一が経営に携わった企業を一部ご紹介いたします。
- みずほ銀行
- 澁澤倉庫
- 王子ホールディング
- 王子製紙
- IHI
- いすゞ自動車
- 太平洋セメント
- 清水建設
- 東洋紡
- 川崎重工業
- 第一三共
- 古河機械金属
- デンカ
- 損保ジャパン日本興亜
- 朝日生命保険
- キリンホールディングス
- 東京製綱
- サッポロビール
- 東京海上日動火災保険
- MS&ADインシュアランスグループホールディングス(三井住友海上火災保険、あいおいニッセイ同和損害保険)
- 日本製紙
- 東京ガス
- 帝国ホテル
- 日立金属
- KDDI
- 片倉工業
- ダイワボウホールディングス
- 大日本製糖
- 三井製糖
- 住友重機械
- 三菱重工業
- 新日鐵住金
- 科研製薬
- 住友化学
- 三井物産
- 養育院 (東京都健康長寿医療センター)
第一銀行(現在のみずほ銀行)設立のエピソード
明治政府は国家の近代化を推進する殖産興業政策、近代銀行制度の確立を目的に、その模範となる銀行として第一銀行(現在のみずほ銀行)の設立を勧奨しました。
そして明治6年(1873年)7月20日、第一銀行(現在のみずほ銀行)は開業を迎えます。
創設にあたり、両替商の重鎮として力のあった豪商の三井組、小野組から出資を得ることとなり、資本金250万円のうち三井組、小野組が100万円ずつ出資しました。
当時、官僚であった渋沢栄一は第一銀行(現在のみずほ銀行)設立の準備に携わっていましたが、官僚を辞任し第一銀行(現在のみずほ銀行)の頭取に就任、以降は実業界に身をおくようになります。
本店である東京以外にも、横浜、大阪、神戸に支店が置かれ営業が開始されましたが、営業開始の翌年の明治7年(1874年)11月、政府の金融政策が急変したことによって出資先である小野組が破綻します。
そのため小野組が経営破綻したことによって第一銀行(現在のみずほ銀行)の営業は危機的な状況を迎えますが、なんとか危機を乗り越えました。
その後、明治17年(1884年)第一銀行(現在のみずほ銀行)は李氏朝鮮(後の大韓帝国)と契約し関税取扱業務を行うようになります。
明治29年(1896年)になると株式会社第一銀行と改称し、昭和18年(1943年)には三井銀行と合併し帝国銀行となりました。
その後も、日本勧業銀行と合併し第一勧業銀行となり、平成14年(2002年)には第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行の分割・合併によりみずほ銀行、みずほコーポレート銀行となります。
そして平成25年(2013年)、みずほコーポレート銀行がみずほ銀行と合併し、みずほ銀行となりました。
澁澤倉庫創業のエピソード
澁澤倉庫とは渋沢栄一が自ら創業した物流企業です。
第一銀行(現在のみずほ銀行)設立後、実業界に身をおいた渋沢栄一は、その後数多くの企業設立に携わりました。
このような活動の中で、渋沢栄一は早くから商工業の発展には物流や倉庫が重要であると考え、明治10年頃から倉庫業の設立を計画し、明治30年(1897年)には自邸内にあった倉庫を使い、澁澤倉庫部(後に澁澤倉庫株式会社となる)を創設し、業界の育成に力を注ぎました。
商法講習所(現在の一橋大学)設立のエピソード
明治8年(1875年)、駐米日本代理公使であった森有礼は外交には商業が不可欠と考え、日本に帰国後、商業専門の学校の設立を計画しました。
そのためには資金が必要となり、当時東京会議所の会頭であった渋沢栄一に資金の援助を要請したのでした。
学校の設立にあたり、森有礼と交流のあったウィリアム・コグスウェル・ホイットニーが校長に就任する予定でしたが、渋沢栄一はウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの就任に難色を示したため、明治8年(1875年)8月、森有礼はやむなく学校設立を諦めます。
しかし、翌月の9月、森有礼は私塾となる商法講習所を開校し、そこで授業を開始しました。
ウィリアム・コグスウェル・ホイットニーは外国人教師となり英語の授業が行われるようになります。
その後、明治17年(1884年)3月、東京商業学校と改称され、高等商業学校、東京高等商業学校、東京商科大学、東京産業大学と改称・改編を繰り返し、昭和24年(1949年)現在の一橋大学となりました。
まとめ
渋沢栄一が設立、経営に関わった会社や大学をご紹介いたしました。
渋沢栄一が設立、経営に携わった会社は500以上とされ、その中には、有名な会社が多くあります。
また会社の設立だけではなく、教育の重要性を知っていた渋沢栄一は大学の設立にも関わりました。
その功績が称えられ、2024年に発行される1万円札の顔として採用されました。
また2021年に放送される大河ドラマ「青天を衝け」は渋沢栄一が主役となっています。