日英同盟とは、ロシア帝国の極東進出を阻むため、1902年1月30日に日本とイギリスの間で締結された軍事同盟です。
この日英同盟は、第1次同盟から第3次同盟まで、目的や内容を少しづつ変化させながら継続していきます。
しかし第一次世界大戦後にワシントン会議が開催され、アメリカの思惑通り四カ国条約が締結されて日英同盟の更新は行われない事となり、1923年、事実上の破棄となりました。
それから100年近くの歳月が流れ、近年、日本とイギリスはまた大変良好な関係になっています。日本とイギリスの取り巻く世界情勢を背景に同盟関係の復活の兆しなどはあるのか、気になる所です。
この記事では、そんな日英同盟の詳細を説明していきます。
日英同盟が結ばれた経緯
日英両国の脅威・ロシアについて
日英同盟を語る上で、まずはロシアについて知る必要があります。当時なぜロシアは脅威とされたのでしょうか。
ロシアという国は、国土の大部分が高緯度に位置し、黒海・日本海沿岸やムルマンスク地区、カリーニングラード(旧ケーニヒスベルク)等を除き、冬季には多くの港湾が結氷します。
そのため「不凍港」という用語がロシア史には欠かせないワードとして出てきます。「不凍港」とは読んで字のごとく凍らない港です。
ロシアにとって、凍らない港は経済的にも軍事戦略的にも大変に価値のあるものです。国家レベルでの宿願である「不凍港」の獲得はロシア史の中で幾度となく行われてきた南下政策なのです。
ロシアの南下政策を容認できない西欧諸国
ロシアの国土は、冬が長く、大変に厳しい環境地が多いです。そのため、国民はよりよい環境を求めて未開発の周辺地域に移ろうとします。
国家側もこれを利用して、人々が苦労して入植・開墾した土地に後から追いつき、政治力・軍事力を用いて労せず入手するということを繰り返していました。これは、第三者からみれば官民一体の南進運動であるかのように見え、強い警戒感をもたらせたのです。
人口も資源においても西欧諸国とは比較にならないロシアが、不凍港を求めて海洋進出を始めることは、西欧諸国からすれば脅威以外の何物でもなく、阻止することが大きな課題となっていたのです。
ロシアの南下政策はいよいよ極東へ
ロシアは幾度も盛んにオスマン・トルコへ戦いをしかけていました。
ヨーロッパの大動脈である地中海を押さえられることを嫌ったイギリスは、トルコを支援してロシアを牽制し、大規模な戦争となったクリミア戦争でも、積極的にトルコ側に付き参戦します。
激化する欧州内の戦いの中で地中海を諦めたロシアは、極東からの南下を目指し始め、シベリア鉄道を拡張して満州に続々兵力を投入しました。
朝鮮半島にも接近したため、当時大陸進出を積極的に行っていた日本の脅威となっていったのです。
日本政府内では意見が割れていた
ロシアの極東への脅威が迫り対応を迫られ、三国干渉で煮え湯を飲まされる形になった日本は、「臥薪嘗胆」というスローガンを国民の中で広く使い、ロシア帝国に復讐するために耐えようという機運が盛り上がっていました。
政府内は一枚岩ではなく、まずは話し合いで交渉を進めていきました。しかし、満韓交換論を唱える政治家がロシアと交渉を進めたものの、結局、交渉において満足できる結果にはならず、日露の衝突は遅かれ早かれ避けられない状況になりました。
最終的に満韓交換論を唱えた政治家も日英同盟の路線へと変わっていきました。
日英同盟締結へ
以上の経緯で日英同盟が締結されることになりましたが、同盟の正式名称は「日英同盟協約」です。
1902年1月30日イギリスのロンドンにて、日本駐英公使・林董とイギリス外相第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスの間で調印されました。
その後、第二次(1905年)、第三次(1911年)と継続更新されていきます。
同盟締結に貢献したイギリス人
日英同盟はイギリスと日本が対等な立場での同盟であり、当時としてはありえないほどの出来事で、他国への衝撃は計り知れないほどでした。
平等な立場で締結できた理由として、イギリス側は北清事変で日本軍が活躍したことを非常に高く評価していたという話があります。
北清事変とは「義和団の乱」のことです。秘密結社による排外運動が発端になり、清国の西太后がこの叛乱を支持して欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となったのです。
義和団事件で日本人が活躍
義和団の乱で各国の公使館が包囲され籠城戦になりましたが、軍隊経験があったサー・クロード・マックスウェル・マクドナルドは、日本公使館の駐在武官であった柴五郎中佐らと協力して各国の駐在者の指揮をとりました。
その時に、クロード・マクドナルドは、芝五郎中佐ら日本人に大変感銘を受けて彼らを評価してくれたのです。
この話は籠城時に記者もいたことで有名な話となり「北京の55日」という映画にもなっています。主演のチャールトン・ヘストンが、アメリカ軍将校として大活躍するのですが、実は、この主役の現実のモデルが柴五郎中佐です。
日本人に助けられたクロード・マクドナルドが同盟に貢献
柴五郎中佐の活躍に助けられたクロード・マクドナルドが、のちに駐日行使・大使となり、外交官を引退するまでの長きにわたって日英関係に貢献することになります。
クロード・マクドナルドは3次までの日英同盟の交渉全てに関わることとなり、日本にとって重要な働きをすることになったのです。
日英同盟の内容について
では、実際の日英同盟の内容について、第一次から第三次まで分けて以下に紹介していきます。
第一次日英同盟(1902年)
- 締結国が他の1国と交戦した場合は同盟国は中立を守り他国の参戦を防止する。
- 2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦する。
第二次日英同盟(1905年)
- イギリスの適用地域が東アジアおよびインドと拡大されてインドにおける特権と、日本の朝鮮に対する支配権を認め合う。
- また同盟義務も第三国から攻撃された場合は相互に軍事的援助の義務を負う(攻守同盟)
第三次日英同盟(1911年)
- ドイツの脅威を加えることになった。
- アメリカが、交戦相手国の対象外に定められることとなった。ただしこの条文は自動参戦規定との矛盾を抱えていたため、実質的な効力は期待できなかったが、これは日本、イギリス、ロシアの3国を強く警戒するアメリカの希望によるものであった。
以上が協約をまとめた内容になります。また、第三次日英同盟に基づき、日本は連合国の一員として第一次世界大戦にも参戦しています。
日英同盟の破棄について
【理由①】ロシア帝国の滅亡
日英同盟が破棄された原因の一つ目として、仮想敵国であるロシア帝国が滅亡したことが挙げられます。ロシア帝国が存在しなくなったことで、日英同盟の存在意義も弱くなってしまったということですね。
【理由②】アメリカがイギリスに圧力をかける
そして二つ目の原因は、アメリカがイギリスに同盟の解消に向けて圧力をかけたことです。
第3次日英同盟はアメリカを仮想敵国から除外していたとはいえ、アメリカ側の考えとして、覇権を獲得するためには日英両国の提携が極めて不都合であり、同盟の廃棄は必須条件と判断されていました。
また、第1次世界大戦中から、イギリスはアメリカに対して莫大な借款を負っており、金融面からもアメリカをむげにできなくなっていたのです。
【理由③】日英の信頼関係が崩れる
その上、第一次大戦中の日本の対応にも問題があり、日英の信頼関係に陰りが生じていました。
第一次大戦では、当初、ドイツが強く、イギリス・フランスは劣勢でした。そのためイギリスは日本にしきりに参戦を求めます。
日本はイギリスが困っているのだからと地中海まで海軍を出向させましたが、その後、二個師団の応援を求められたときに、陸軍についてはヨーロッパへの派兵を断り続けました。
日本陸軍は先進国の軍隊との接触が少なく、軍事技術の変化発展を学びとる機会が少なかったため、世界情勢に疎かったのでしょう。
この出来事は、イギリス内で同盟継続に反対する意見が大きくなるきっかけとなり、日英同盟破棄の元凶になりました。
【理由④】日本の外交方針の転換
最後に日本の外交方針も要因に加わります。当時の内閣は対米協調路線を取っていました。
決してイギリスを蔑ろにしていたわけではありませんが、アメリカの提案する四ヵ国条約は平和を求める各国の希望の結晶であるなどと信じ込んでしまい、全権・幣原喜重郎は軽率にもこの提案を受け入れます。
こうして日英同盟は四ヶ国条約に取って替わり更新されず、破棄されてしまいます。
日英同盟の復活について
残念ながら現在、日英同盟は復活していません。
ただし親中であった前政権のキャメロン首相と異なり、現在のメイ首相は日本と良好な関係を構築しています。
理由として、両国は近年になって急速に安全保障協力を拡大し、核・ミサイル開発を進める北朝鮮や中国の軍拡をにらみ、米国を共通の同盟国とする日英間で利害が一致しているからです。
破棄から約100年近くの時を経て日英同盟が「復活」の兆しをみせています。