天草四郎(時貞)とは?伝説や墓などその生涯を解説!

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島原の乱で農民たちを率いて戦った少年・天草四郎(時貞)。しかし、その人物像は謎に包まれています。

彼の伝説や墓、生涯について解説します。

天草四郎(時貞)の生い立ち

1621年、大矢野に生まれ。本名は益田四郎洗礼名はジェロニモ(のちフランシスコに改名)とされていますが、大矢野四郎とも単に四郎とも呼ばれ、名前には諸説あります。

益田家は、一家全員がキリシタンで、洗礼名を持っていました。父・益田甚兵衛はもともと小西行長に仕えた牢人で有力な農民で、島原の乱の首謀者の一人です

益田家は、経済的に余裕があり、四郎は9歳から手習いをはじめ、学問をしに長崎へたびたび行くなど、当時の農民としてはインテリだったと言われています。

 

宗教的リーダーに

キリシタン弾圧と重税

もともと島原はキリシタン大名の有馬晴信の領地だったこともあり、キリシタンが多くいましたが、そのあとに島原に入った松倉重政によりキリスト教弾圧が始まり、ほとんどの人々は仏教に改宗させられていました。

また、松倉重政に藩主が代わって以降は、農民たちは重税に苦しみます。

松倉氏は、城を新しく新築したり、江戸城の普請のために実際の石高は4万石なのにも関わらず、10万石と偽って、課税を行っていました。

 

凄惨な拷問

子の勝家の代になると、あらゆるものに課税をし、取り立てに応じないと人質をとったり、拷問にかけるようになります。

人に蓑を着せて吊るし、火をつけるという「火蓑」、腰の高さに水を入れた牢屋に人を入れて苦しませる「水牢」などのほか、火山火口に人を吊るすなどの残虐な拷問を行い、状況は悪くなる一方でした。

しかも追い打ちをかけるように数年間にわたって飢饉が頻発します。

こうした苦しい状況に、四郎は独特な扮装で島原各地を回ってキリスト教への立ち返りを説いてまわりました。

すると、四郎にまつわるある伝説や奇跡のうわさがたち、農民たちに神のように慕われるようになります。

 

島原の乱

16歳の時には、藩主の苛政・キリスト教弾圧により困窮していた3万人の農民たちを率いて島原の乱を起こし、廃城に立て籠って幕府軍と戦います。

しかし最後は幕府軍に攻め込まれ、立てこもっていた農民たちは皆殺しにされました。

食料や弾薬など物資が尽きていく中、宗教的指導者として農民たちを励ましながらも、最後は幕府によって討たれ、悲劇的な最期を遂げたのです。

天草四郎の墓

四郎は討ち取られた後、島原藩内と出島でさらし首になり、その首はほかの首謀者たちと一緒に首塚に葬られたと言われ、本当の墓の所在は不明です。

しかしながら、島原には2か所、四郎の墓が存在します。

一つは、島原の乱の決戦地・原城址にあり、もともと四郎の墓に使われていたと思われる墓石が供養されています。

この墓石は、ある民家の石垣として使われていたのが発見されたもので、風化した文字は、四郎の母が掘ったと言われています。

もう一つは、天草四郎ミュージアムそばの天草四郎公園の中にありますが、こちらは墓というよりも供養塔に近い存在です。

 

3つの伝説

16才で農民を率いて乱を起こした天草四郎には様々な伝説があります。

 

伝説① 運命の予言

四郎は生まれる前から、その運命を予言されていたそうです。

1614年、有馬氏が転封になると同時にルソンへ追放されたママコスという宣教師が謎めいた予言をしました。

「25年後、終末的状況に陥った時、天が若者を使わし、人々を救済する」と。それが天草四郎だというのです。

 

伝説② 奇跡を起こす

また、四郎はキリスト教的な奇跡を何度も起こしたとも言われています。

たとえば、「歩いて海を渡った」とか、「手に小鳥が止まり卵を産んだかと思ったら、その卵からキリスト教の経文が出てきた」「盲目の少女を癒した」等、キリスト教の聖人がなしたような奇跡を数々起こしたという伝説があります。

 

伝説③ 豊臣秀頼の息子説

そのほかにも豊臣秀頼の私生児だったという説があります。というのも四郎は、豊臣秀吉と同様の金のひょうたんの旗飾りを使っていたからです。

 

天草四郎の年表

1614年 有馬氏の転封。宣教師ママコスの預言。

1616年 松倉氏が島原へ転入、キリシタンへの弾圧と苛政が始まる。

1621年 天草四郎生まれる。

1630年 島原藩主、重政から勝家へ代替わり。

1634年 この年以降、天候不良による飢饉が頻発する

1637年 島原の乱勃発

1638年 島原の乱、鎮圧される。四郎討ち取られる。