東龍太郎とは?生涯やオリンピックでの逸話、都知事になった経緯について解説!

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2019年の大河ドラマ「いだてん」に登場する東龍太郎(あずまりょうたろう)という人物は実在した人物です。

医学博士であった東龍太郎は、日本におけるスポーツ医学の草分けとして日本におけるスポーツの普及に務めました。

そのため昭和22年(1947)から昭和34年(1959)まで日本体育協会会長・日本オリンピック委員会委員長を務め、東京都知事就任後もIOC委員を務めるなど、1964年東京オリンピックの誘致に深く尽力しました。

そんな東龍太郎の生涯やオリンピックでの逸話、都知事になった経緯について解説していきます。

東龍太郎の生い立ち

東龍太郎は明治26年(1893)1月16日、医師であった父・東藤九郎の長男として大阪で誕生しました。

天王寺中学校卒業後は第一高等学校を経て、東京帝国大学医学部に入学します。

大学在学中はボート部に所属していたとされ選手として活躍していました。

大正6年(1917)東京帝国大学医学部を卒業すると、ロンドン大学へと留学し、物理化学・生理学を学びます。

その後、大正時代末期に日本に帰国した東龍太郎は母校である東京帝国大学の助教授となり、昭和9年(1934)に教授に就任しました。

太平洋戦争が勃発すると、海軍司政長官・南西方面海軍民政府衛生局長・結核予防会理事を歴任します。

 

1964年東京オリンピックの誘致に力を注ぐ

戦後になると、昭和21年(1946)に厚生省医務局長、昭和22年(1947)に日本体育協会会長・オリンピック委員会委員長、昭和25年(1950)に国際オリンピック委員会(IOC)委員に就任します。

日本体育協会会長・オリンピック委員会委員長は昭和34年(1959)、国際オリンピック委員会(IOC)委員は昭和43年(1968)まで務めたとされ、1964年東京オリンピックの誘致に深くかかわりました。

東京都知事となる

この間、1964年東京オリンピックの誘致に日本が沸き上がる昭和34年(1959)、東龍太郎は東京都知事選に自由民主党の推薦で立候補すると、見事当選し昭和34年(1959)4月27日から昭和42年(1967)4月22日まで2期8年にわたり、東京都知事を務めました。

都知事就任後も東龍太郎は1964年東京オリンピックの誘致に力を注ぎ、東京オリンピック開催、実現が見事、成功します。

しかし1964年東京オリンピック開催の成功は東龍太郎の手腕によるものではなく、東京オリンピック開催のプロジェクトを軌道に乗せた後に都知事となる副知事・鈴木俊一の手腕のおかげだと評価されることが多く、そのため「東副知事・鈴木知事」と揶揄されることがあったとされています。

 

都知事の引退

1964年東京オリンピックは高度経済成長の恩恵を受け東京では、所得の増加、また日本の人口の約一割が東京に集中する結果となりました。

しかし、それに伴い公害問題が発生し、また水不足などが相次いで発生します。

このような水不足に対し、東京都知事である東龍太郎は雨が降らないから水不足に陥ったと述べ、これによって東京都の水利政策はきちんとなされていないといった批判を浴びることとなります。

また昭和40年(1965)の都議会議長選挙をめぐる買収・汚職事件(東京都議会黒い霧事件)が明るみとなり都民の反発を買うこととなり、東龍太郎は昭和42年(1967)に都知事の引退を表明しました。

その後、東京都知事となったのは美濃部亮吉です。

 

東龍太郎の晩年

東京都知事退任後は昭和42年(1967)から昭和44年(1969)東邦大学の学長を務め、また昭和43年(1968)から昭和53年(1978)まで10代日本赤十字社社長などを就任します。

その後、昭和58年(1983)5月26日、90歳で肺炎によって亡くなりました。

東龍太郎は人柄がよく、誰にでも愛想よく振舞うことのできる人物であったとされています。

 

まとめ

東龍太郎は東京都知事となり、1964年東京オリンピックの誘致に深く尽力した人物です。

しかし、東京オリンピック後に発生した公害や汚職事件で批判を浴びることとなり都知事を引退する結果となりました。

引退後は日本赤十字社社長に就任するなどし、90歳でこの世を去りました。

2019年の大河ドラマ「いだてん」では俳優の松重豊さんが東龍太郎を演じられています。

この大河ドラマは1964年東京オリンピック開催までの52年間を描いた物語で、日本初のオリンピック選手・金栗四三、東京オリンピック招致に尽力した田畑政治が主人公として登場しています。

この大河ドラマを見れば2020年東京オリンピックをより一層楽しめるのではないでしょうか。