チャールズ・ダーウィンはイギリスの自然科学者です。
ダーウィンは生物は厳しい環境において無目的に突然変異を選び進化していくといった自然選択説を説き、生物の進化論を提唱しました。
そんなダーウィンの生涯や名言、子孫について解説していきます。
ダーウィンの生い立ち
チャールズ・ダーウィンは1809年2月12日、イングランドのシュロップシャー州シュルーズベリーで誕生しました。
ダーウィンは医師で投資家の父・ロバート・ダーウィンと母スザンナ・ダーウィンの次男として誕生します。
裕福な家庭から誕生したダーウィンは幼いころから、植物、貝殻、鉱物などの収集を行い、博物学的趣味を好んでいました。
1818年、シュルーズベリーの寄宿舎校で教育を受けると、16歳となったダーウィンは父の医業の補佐のためエディンバラ大学で医学と地質学を学びはじめます。
しかし、血液を見ることが苦手であったダーウィンは外科手術などの講義になじめず1827年に中退となります。
その後、南米探索の経験のある黒人のジョン・エドモンストーンから動物の剥製製作術を学び、プリニー協会に所属すると海生生物の観察などに従事し、ロバート・グラントが研究していた海洋無脊椎動物の研究の補助を行います。
またエディンバラ大学博物館で研究の手伝いも行いましたが、父がダーウィンを牧師とすべく1827年にケンブリッジ大学クライスト・カレッジに入学させられました。
この学校で神学や古典、数学などを学んでいましたが、必修科目ではない博物学や昆虫採集なども行いました。
地層学者であったアダム・セジウィッグから層序学を学び、同時にウィリアム・ペイリーの「自然神学」などを読み始めます。
イギリス海軍の測量船ビーグル号に乗船
1831年にケンブリッジ大学クライスト・カレッジを卒業すると聖職者・博物学者ジョン・スティーブンス・ヘンズローの紹介でイギリス海軍の測量船ビーグル号に乗船しました。
1831年12月27日にプリマスを出航し、この航海の途中、ガラパゴス諸島に立ち寄った際、この島に生息する鳥ダーウィンフィンチの多様性から進化論のヒントを得ます。
1836年10月2日にファルマス港に帰着し5年に及ぶビーグル号航海が終わりました。
ダーウィンはこの航海で、南米で今生きていない大型の哺乳類化石を発見したこと、ガラパゴス諸島の生物の多くが南米にいる生物に似ているということ、南米沿岸を移動すると近縁と思われる種に置き換えられているということを印象的な出来事として描き残し、生物は大陸の変化に適応しているということに気づきます。
航海後
博物学者ジョン・スティーブンス・ヘンズローは航海中であったダーウィンから届く手紙を様々な博物学者に見せていたため、長い航海から帰国したダーウィンは科学界において有名な人物となっていました。
父はダーウィンが科学者になれると確信し、投資を始めます。
12月中頃にケンブリッジに移り、ダーウィンは航海記を書き直し、南アメリカ大陸はゆっくりと隆起したという論文を書き1837年1月にロンドン地質学会で読み上げました。
1837年3月にロンドンへと移ると、科学者や数学者・チャールズ・バベッジといった様々な学者と交流を深めます。
この頃、ダーウィンは自由思想家であった兄・エラズマスと暮らしていました。
ダーウィンは航海の間で発見したガラパゴス諸島の生物が南アメリカの生物に似ているという点に着目し、生物の種は変わらないという考えは間違っていると気づき、種が他の種に変わるという可能性を考え始めます。
同年6月頃から体調を崩し始めたダーウィンでしたが、その後も研究を続けました。
結婚
ダーウィンの姉・キャロラインが1838年にジョサイアと結婚します。
この頃からダーウィンは結婚を意識するようになり、1839年1月にエマ・ウェッジウッドと結婚し、同年12月には長男ウィリアムが誕生しました。
ダーウィンはその後、10人の子どもに恵まれることとなります。
ダーウィンの進化論
ダーウィンは1838年頃から生物は厳しい環境変化によって無目的に突然変異を起こし、変化を遂げるといった自然選択説を思いつきます。
ダーウィンが考えた自然選択説は進化論ととらえられ、すべての生物が環境の変化に対し対応する変異を持つが、生存競争で生き残った生物の、その変異が親から子供に遺伝し、多様な種に分岐し多様な種が誕生する、この繰り返しによって生物は変化する環境に対応していく。と論じました。
1856年、自然選択説の論文の執筆をはじめた頃、ダーウィンははアルフレッド・ウォレスの論文を目にします。
アルフレッド・ウォレスの論文は、ダーウィンの考えた自然選択説を類似している点がありました。
そのため、1858年7月1日のロンドン・リンネ学会で、ダーウィンの論文とアルフレッド・ウォレスの論文は共同論文として発表されます。
「種の起源」の出版と、その影響
この論文は、1859年11月22日に「種の起源」と題して出版され、多くの人々の手に渡り、人気を博しました。
この出版の影響は強く、博物学者のベイツやミュラーが自然選択説の支持者となり、進化論を補強するための様々な資料が提供されることとなります。
一方で、自然選択説の考えに反対する者もいました。
自由主義的な聖職者は自然選択を神のデザインの道具と解釈したため1860年にはオックスフォード大学で自然選択説に対する支持派と反対派による討論会が行われます。
この討論会はダーウィンの進化論の知名度をあげることとなりました。
出版された「種の起源」は様々な言語に翻訳され次世代の研究者の関心を引き付けることとなり、彼らのテキストとなりました。
晩年
1871年になるとヒトは動物であると論じた「人間の由来」を発表し、翌1872年には「人と動物の感情の表現」を出版しました。
その後も、ツタ植物の運動、食虫植物、植物の自家受粉と他家受粉の影響などの研究を行ったダーウィンでしたが、1882年になると、年を取ったダーウィンの身体は不自由となりはじめます。
そして4月19日、ケント州ダウン村の自宅で73歳で亡くなりました。
子孫
ダーウィンはエマ・ウェッジウッドとの間に10人の子どもがいました。
しかしそのうちの2人の子どもは幼くして亡くなり、長女・アン・ダーウィンも猩紅熱によって10歳で亡くなります。
記録に残されているダーウィンの子供たちをご紹介いたします。
長男・ウィリアム・ダーウィン
グラント・アンド・マディソン銀行の銀行家となりのサラ・アシュバーナーと結婚します。
次男・ジョージ・ハワード・ダーウィン
天文学者、数学者となりマルタ・デュ・ピュイと結婚します。
孫には映画「ナルニア国物語」に出演したスキャンダー・ケインズがいます。
三男・ダーウィン・フランシス
数学者、医者となりました。
四男・レオナルド・ダーウィン
軍人、政治家となります。
五男・ホリス・ダーウィン
土木技師、実業家となり、1896年から1897年までケンブリッジ市長を勤めます。
六男・チャールズ・ダーウィン
1856年に誕生します。
長女・アン・ダーウィン
猩紅熱によって10歳で亡くなります。
次女・メアリー・ダーウィン
誕生から3週間後に亡くなります。
三女・ヘンリエッタ・ダーウィン
リチャード・バックリー・リッチフィールドと結婚しました。
四女・エリザベス・ダーウィン
1847年に誕生します。
名言
最後に
ダーウィンとウォレスの共同論文として発表された論文は「種の起源」にまとめられ出版されました。
これによって多くの人にダーウィンの考えた進化論が読まれることとなりましたが、この進化論は賛否両論に分かれ討論会が行われました。
答えのない討論会は、一層、進化論の知名度を上げることとなり、「種の起源」は多くの国々で翻訳され、明治29年(1896)には立花銑三郎によって「生物始源」という題で初めて日本で翻訳されました。