チンギスハンとは?源義経との関係や墓、フビライハンなどの子孫について解説!

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チンギスハンはモンゴル族を統一し大帝国を建設した人物です。

平氏を滅亡に追いやった源義経には、チンギスハンと統一人物なのではないかとされるチンギスハン説などがあります。

そんなチンギスハンの生涯や源義経との関係性、また墓や、孫であるフビライハン、チンギスハンの子孫などについて解説していきます。

チンギスハンの生い立ち

チンギスハンはイェスゲイ・バアトルの長男としてモンゴルで誕生しました。

父・イェスゲイ・バアトルはチンギスハンが誕生する前にテムジン・ウゲとコリ・ブカと戦いに勝利したため、この頃に誕生した長男にテムジンと幼名を付けます。

 

父の死

父のイェスゲイ・バアトルは勇者の称号を持つ人物で、有力部族連合ケレイトの王トグリルと同盟関係を結び、勢力を広めていました。

しかし、チンギスハンが9歳の頃、タタール部族によって父・イェスゲイ・バアトルが暗殺されると、父・イェスゲイ・バアトルの家臣たちは次々と去っていき、その勢力は力を弱めていきます。

父が亡くなるとイェスゲイ家の管理は母・ホエルンによって任されることとなり、苦しい生活の中でも幼い子供たちを育てました。

チンギスハンが成長するにつれ、タイチウト氏がイェスゲイ・バアトルの息子・チンギスハンが脅威となることを恐れ、チンギスハンを捕らえる計画を企て、チンギスハンを幕営に抑留することに成功します。

しかしチンギスハンは牧民ソルカン・シラなどの助けによって、危機的状況を脱することとなりました。

その後もチンギスハンはモンゴル部の宿敵メルキト部族連合の王トクトア・ベキに襲撃され妻ボルテを略奪されましたが、亡き父・イェスゲイ・バアトルの同盟者であったトグリル・カンやチンギスハンの盟友であるジャムカなどの援助を受け、妻・ボルテを取り戻すことができました。

 

有力者となる

トクトア・ベキによる襲撃後は同盟者たちの支援もあり勢力を盛り返すことができました。

こうしてチンギスハンは一目置かれる有力者となり亡き父に仕えていた戦士や、遊牧民などがチンギスハンに仕え、勢力の拡大となります。

盟友・ジャムカとの対立

しかし一方で、盟友であるジャムカとの関係性は冷め、ジャムカ一族の1人がチンギスハンの馬を盗もうとしたところを、チンギスハンに見つかり殺害されるといった事件が起こったのを機に、チンギスハンとジャムカは完全な対立関係となりました。

1190年頃に起こった十三翼の戦いでチンギスハンとジャムカは争い、ジャムカは敗北となります。

 

モンゴル帝国の設立

ジャムカとの争いの後は、1195年頃にキヤト氏集団の中の有力者であるジュルキン氏を討ちキヤト氏を統一させ、1199年にナイマン、1200年になるとモンゴル部内の宿敵タイチウト氏を破りました。

その後も多くの戦に参加し、1205年最後の大勢力であったナイマンとメルキトを破り、宿敵ジャムカを捕え処刑し全遊牧民族はチンギスハンの支配下となります。

1206年2月に諸部族の指導者や功臣などを集め、最高意思決定機関であるクリルタイを開きチンギスハンは即位し、モンゴル帝国を開きました。

 

モンゴル帝国軍の設立

チンギスハンはモンゴル帝国を開くと、まず征服した遊牧民を領民とし、諸部族の指導者を貴族として分けます。

貴族には千人隊長と呼ばれる役職が与えられ、その貴族の下にあたる領民は千人隊と呼ばれる集団に構成されました。

また将来の幹部を養成するための機関の設立や情報伝達を行うための機関などが設立され、軍事国家が着々と作り上げられていきます。

 

中国との対立

チンギスハンは1211年に、中国の金と開戦します。

この戦いで、モンゴル軍は野戦で勝利を収めるも、中国軍の堅固な防壁によって都市部の攻略には至りませんでした。

この戦で中国の攻城戦を学んだモンゴル帝国軍は、その後も中国国内で戦をはじめ、多くの戦で勝利を収めます。

その結果1215年には金の領土を支配下に置くことができました。

 

クチュルクを破る

金と戦を行っていたころ、西遼にいたクチュルクは西遼最後の君主である耶律直魯古からその王位を奪おうとしていました。

このクチュクルの混乱に対しチンギスハンは将軍ジェベにクチュクルの討伐に向かわせます。

討伐に向かったジュベはカシュガルの西でクチュクルを破り、1218年頃までには、モンゴル帝国は西にバルハシ湖、南にペルシア湾、西にイスラム王朝であるホラズム・シャー朝にまで勢力を伸ばしていました。

 

ホラズム・シャー朝の君主アラーウッディーン・ムハンマドの討伐

チンギスハンは1218年、ホラズム・シャー朝に通信使節を送り込みました。

しかし、その際、通信使節たちがオトラルの治者イネルチュクによって虐殺されるといった事件が起きます。

これに対し、チンギスハンは20万の軍を率いて自ら報復に向かいました。

1219年に中央アジアのシルダリア川流域に到着すると、中心都市であるサマルカンド、ブハラ、ウルゲンチを制圧し、1220年までにホラズム・シャー朝は崩壊となります。

チンギスハンの報復から逃げ延びた君主アラーウッディーン・ムハンマドは西方に逃げたとされ、チンギスハンはさらに君主アラーウッディーン・ムハンマドの討伐にジェベとスベエデイを向かわせました。

しかし、君主アラーウッディーン・ムハンマドはカスピ海上の島で窮死したとされ、このことでホラズム・シャー朝は完全に崩壊となります。

 

モンゴル軍の活躍

君主アラーウッディーン・ムハンマドの討伐が行われていた一方で、チンギスハン率いるモンゴル軍本隊は、ジャラールッディーン・メングベルディーの討伐のためアフガニスタン・ホラーサーンに向かっていました。

このジャラールッディーン・メングベルディーの討伐では、途中苦戦を強いられるも結果的には大勝利を収めます。

しかし、ジャラールッディーン・メングベルディーはインダス川を渡りインドへと逃げ去ったので、チンギスハンは追撃をすることはありませんでした。

その他のモンゴル軍も敵軍を突破し、ニーシャープール、ヘラート、バルフ、メルブといった都市や大都市であるバーミヤーンを制圧します。

 

チンギスハンの最期

1225年に帰国すると、これまでの戦で制圧した領地を息子たちに分け与えました。

そしてチンギスハンの後継者には三男・オゴデイを指名したとされています。

それから1年後の1226年には休む間もなく西夏を攻略、1227年には金の領地であった陝西、河南の攻略に三男・オコデイを派遣しました。

一方、チンギスハンは自ら部隊を率いて興慶を攻略したとされています。

しかし、この頃になるとチンギスハンは陣中で危篤状態に陥ったとされ、1227年8月18日にチンギスハンは陣中で亡くなりました。

チンギスハンは息子たちに西夏の皇帝を討伐するように命じ、また金を完全に滅亡させるよう末子トルイに遺したとされています。

チンギスハンの墓

チンギスハンは死後、モンゴル高原の起輦谷に葬られました。

チンギスハンは死ぬ間際に自身が亡くなった事が敵軍にばれると、敵軍が攻めてくるかもしれないと懸念し、自身の死は公表しないように家臣に頼んだとされています。

よって、チンギスハンの遺体を運ぶ隊列や埋葬作業を見た者はチンギスハンの死を隠すために殺害されました。

このことから現在もチンギスハンの墓の所在地は分かっておりません。

 

源義経との関係性

源義経は平氏を滅ぼした人物です。

源義経は衣川の戦いで亡くなったとされていますが、衣川の戦いでは亡くなっておらず、蝦夷地に逃げたのち大陸に渡りチンギスハンになったのではないかというチンギスハン説が誕生しました。

しかし、このチンギスハン説はチンギスハンの出自や父親の名前が判明されたことから、完全に否定されたものとなっています。

 

フビライハンとの関係

2人も名前が似ていますが、フビライハンはチンギスハンの孫にあたる人物です。

チンギスハンの四男・トルイの子供として誕生しました。

 

子孫

チンギスハンの弟や弟の子孫たちはモンゴル帝国において「黄金の氏族」と呼ばれ、一般の貴族よりも格上の君主として君臨する集団となり、即位にはチンギスハンの男系子孫に限られていました。

男系子孫に限った即位の事をチンギス統原理と呼び、このチンギス統原理は20世紀初頭まで続いたとされます。

チンギスハンの子孫ではない男性貴族たちもチンギスハンの子孫である女性と結婚したので多くの遊牧民はチンギスハンの血を引くこととなりました。

またチンギスハンの女系子孫はロシア貴族やヨーロッパ貴族とも婚姻を結ぶことが多く、チンギスハンの子孫はヨーロッパにまで及んでいます。

よって現在でもチンギスハンの末裔である家系は多く、2004年の研究で世界に約1600万人のチンギスハンの男系子孫がいることが判明しました。

 

最後に

チンギスハンはモンゴルの遊牧民族を統一し、モンゴル帝国を開いた人物でした。

チンギスハン率いるモンゴル軍は戦術の巧みさや中国、イスラムの戦闘技術を取り入れていたため、この他の理由も含め最強の軍隊とされています。

チンギスハン亡き後、埋葬された場所は今でも明確にはされておらず現在も調査が行われています。