アメリカ大陸を発見したとされる航海士・コロンブスはマルコポーロの『東方見聞録』に記されたた黄金の国・ジパング(日本)や中国、インドなどに興味を持ち、航海を始めたとされています。
1492年以降、コロンブスは様々な島を発見し上陸しては植民地を増やしていきました。
しかし、その過程で先住民を虐殺したなど、悲惨な歴史があったのです。
そんなコロンブスの生涯やアメリカ大陸を発見した経緯、またその航路、「コロンブスの卵」の意味と逸話について解説します。
コロンブスの生い立ち
クリストファー・コロンブスが誕生したのは1451年頃とされています。
明確な史実は分かっていませんが、父・ドメニコ・コロンボと母スサナ・フォンタナローサの息子として誕生しました。
コロンブスは7人兄弟とされていますが、そのうちの2人は幼くして亡くなったとされています。
コロンブスの父・ドメニコ・コロンボは毛織物職人であったとされ、仕事柄、船に乗ることがあり、コロンブスは10代の頃から父とともに船に乗り、父の仕事を手伝っていました。
リスボンに移る
1477年春以降、コロンブスはリスボンへと移ります。
リスボンには地図製作に従事していた弟・バルトロメがおり、コロンブスは弟・バルトロメの地図製作を手伝いながら暮らしていました。
1477年2月にはリスボンからアイルランドのゴールウェイそしてアイスランドまで航海したと記録が残されています。
結婚
1479年末頃、コロンブスはフェリパ・ペレストレリョ・エ・モイスと結婚します。
コロンブスが結婚したフェリパ・ペレストレリョ・エ・モイスは貴族出身の娘であったとされています。
結婚したコロンブスはたびたび、妻のゆかりの地であるポルト・サント島に旅することもあったとされ、1480年頃その地で長男・ディエゴが誕生しました。
長男が誕生した翌年の1481年、コロンブスは南アフリカを南下し航海を始めたディオゴ・デ・アザンプージャの船に乗り込み、ギニアとゴールドコーストまで行ったとされています。
アジア到着を目的とした航海の準備
この頃になるとコロンブスはスペイン語やラテン語また天文学や地理、航海術を学び始めました。
またコロンブスはイタリアの地理学者であるパオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリと交流を始めたとされています。
コロンブスはこの頃、マルコポーロの『東方見聞録』に記された黄金の国・ジパング(日本)や中国、インドなどに興味を持っていました。
そこで当時、一般的に信じられていた大地(地球)は球体であるという地球球体説を活用し、西廻りでアジアに向かう計画をたてます。
こうしてコロンブスは現存する最古の地球儀を造ったとされるマルティン・ベハイムらと意見を交わし、アジアへの航海の準備を始めました。
ジョアン2世に航海の援助と許可を求める
1484年末頃、コロンブスはアジアへの航海の経済的な援助と許可をポルトガル王ジョアン2世に求めます。
しかし、ポルトガル王ジョアン2世から援助を航海の許可を拒否され、自費で航海するのならば、航海の許可を降すと述べられます。
自費での航海を認められたコロンブスでしたが、そのような資金はありませんでした。
「サンタ・フェ契約」を結ぶ
この頃になると、コロンブスの妻・フェリパが亡くなり、コロンブスは8年間過ごしたポルトガルを離れスペインへと向かいました。
スペインで生活を始めたコロンブスは1486年5月1日、イサベル女王に面会し再び、航海の許可と援助を求めます。
しかし、コロンブスが示した航海計画に疑問性がみられ、援助の要求は持ち越しされました。
当時、複数のキリスト教国家によりイベリア半島の再征服活動が行われていました。
その活動に多くの資金を使っていたため、コロンブスの航海費用まで補うことができず、コロンブスの要求に応えることができなかったとされています。
しかし、1492年1月2日にグラナダが陥落し、再征服活動が幕を閉じたことで、スペインの財政に余裕が生まれ、1492年4月17日にコロンブスの航海計画を援助するといった「サンタ・フェ契約」がコロンブスと王室の間で結ばれることとなりました。
1度目の航海
こうしてコロンブスはキャラベル船のニーニャ号とピンタ号、ナオ船のサンタ・マリア号、合計3隻で1492年8月3日、インドを目指してパロス港を出航しました。
出向したコロンブスらでしたが、太平洋は極端に島のない大洋であり、長い船旅を強いられることとなる乗組員たちは不安に襲われます。
そのため10月6日には小規模な暴動が起きました。
この際、コロンブスはあと3日で陸地を発見できなければ、スペインに引き返すと述べたとされています。
アラワク族インディアンとの出会い
10月11日、ピンタ号が陸地を発見します。
コロンブスはこの陸地を占領すると「サン・サルバドル島」と名付けました。
この島にはアラワク族インディアンが住んでおり、コロンブスは彼らから歓迎を受けた、またアラワク族インディアンらは素晴らしい奴隷になるだろう。と記録しています。
その後、コロンブスらは現在のキューバ島を発見すると「フアナ島」と名付けます。
12月6日にはイスパニョーラ島と名付けられた島に到着し、その後、コロンブスらは3月15日、スペインのパロス港へ帰還しました。
帰還したコロンブスは、陸地の発見やアラワク族インディアンから奪い取った戦利品を手に入れ、またスペインの王室はコロンブスに新大陸を探検し、その発見された島を植民にする独占的な権利を与えました。
2度目の航海
1493年9月、コロンブスは2度目となる航海を行います。
この航海は農民や坑夫、1500人の植民目的のためでした。
11月にドミニカ島と名付けた島に到着し、前回の航海でつくった植民地にいってみると原住民であるインディアンらによって破壊されていたとされています。
そのためコロンブスは新たな植民地「イサベル植民地」を築きましたが、白人入植者の間で植民地での生活の不満がつのり、また原住民の間では支配を行うコロンブスらに対し怒りが重積していくこととなっていました。
先住民であるインディアンに対する虐殺行為
こうして遂に、コロンブスらと原住民であるインディアンの間で対立が勃発します。
そんな中、コロンブスは病にかかりイスパニョーラ島で療養生活を送っていました。
その間にも、コロンブスの軍勢と原住民との間で対立は激化し、コロンブスが療養から復活したころには、5万人以上のインディアンが虐殺されていたとされています。
コロンブスらはインディアンとの争いに大勝利し、コロンブスは生き残ったインディアンらを奴隷としてスペインへと送りました。
しかし、コロンブスらが行ったインディアンの大虐殺に対しイサベル女王は怒り、コロンブスの統治に対する調査委員が派遣されます。
3度目の航海
1498年5月、コロンブスは3度目となる航海にでます。
現在のベネズエラのオリノコ川の河口に上陸したコロンブスらはその後、北上してサントドミンゴへと向かいます。
サントドミンゴは以前にも上陸しており、コロンブスは弟・バルトロメに統治を任せていたのですが、その統治の悪さから反乱が勃発していました。
そのため、コロンブスは反乱を起こす植民たちを説得しますが、説得は受け入れられず、1500年8月、コロンブスは本国から来た査察官によって逮捕され、本国へと送還され、地位を剥奪されます。
4度目の航海と最期
その後もコロンブスは4度目となる航海を計画し、1502年に出航しましたが、小型の古びた船4隻で出向したため船は難破し救助され、1504年11月にスペインへと戻りました。
帰国後、コロンブスは病気を患い1506年5月20日に55歳で亡くなったとされています。
アメリカ大陸を発見していなかった
コロンブスはキューバ島やイスパニョーラ島などを発見し、アメリカ大陸においてはじめてスペイン入植地を確保しました。
そのためコロンブスはアメリカを発見したと語られることが多いですが、アメリカ大陸にはコロンブスが上陸する以前から先住民が文明を築いているためコロンブスがアメリカ大陸を「発見」したという表現は間違っているといった指摘されています。
よってコロンブスが発見したのは、アメリカ大陸ではなく、ヨーロッパとアメリカ大陸を結ぶ航路であるということです。
コロンブスの卵
コロンブスの卵とは「誰でも出来る事でも、最初に実行するのは至難であり、柔軟な発想力が必要」「逆転の発想」という意味で現在使用されている言葉です。
この言葉にはこのような逸話が残されています。
逸話
コロンブスらが新大陸を発見し、スペインに帰国後、新大陸発見を祝う凱旋式典が行われました。
その際、新大陸を発見したコロンブスらの成功を妬む者が「誰でも西に進めば、大陸にぶつかる。」と述べたとされています。
それに対し、コロンブスは卵を持ち、この卵を机の上にたててみよ。と返します。
成功を妬む者たちは、卵をたてようと試みましたが、誰も成功することはありませんでした。
しかし、コロンブスは卵の先を軽く割り机の上に立ててみせます。
妬むものはこれに対し「そのような方法を用いれば、誰でも卵をたてられることはできる」と言います。
これに対しコロンブスは「そうです、誰でもできる。しかし、誰でもできることを最初に実行しようとするのは至難なことであり、また閃きも必要なのです。」と答えたとされています。
この逸話がコロンブスの卵の言葉の語源とされています。