元寇とは1274年頃に中国大陸を支配していたモンゴル帝国と高麗王国が日本に侵攻してきた1度目の文永の役と2度目の弘安の役の、2つの役の事を指します。
元軍が対馬へと上陸した際は、多くの住民を殺害したとされ、その光景はとてもむごい殺戮だったとされています。
そんな元寇の内容や、時代背景、また元軍を追い返した神風の真実について解説していきます。
元寇とは
元寇とはモンゴル帝国と高句麗王国の連合軍である元軍が日本に侵攻してきた文永の役と、弘安の役の2つを指した言葉です。
元寇の他にも蒙古襲来とも呼ばれています。
時代背景
1259年に高句麗がモンゴル帝国に降伏し、チンギスハンの孫、フビライハンは文永3年(1266)頃には、その領土を中国大陸だけではなくヨーロッパまでを領土とする史上最大の帝国と成長させていました。
日本との交流
高句麗人であったモンゴル帝国の官吏がフビライハンに、高句麗の隣国である日本と高句麗はこれまで使徒を送り交流を行ってきた。として、フビライハンにも日本との交流を勧めました。
この官吏の勧めによって日本との交流を決意するフビライハンですが、一方で、未だ、領地にできていなかった南宋とモンゴル軍は大々的に争うも、決着は着かず、この南宋の攻略には日本を属国にする必要があると考えていたことから、対南宋攻略の一環としてモンゴル帝国は日本との交流を図ったともされています。
こうして日本への使徒を派遣しますが、この頃にフビライハンは「朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ」「或いは南宋、或いは日本、命に逆らえば征討す」と延べていたことから、フビライハンには日本と栄の征服を願っていたようです。
使徒の派遣
文永3年(1266)フビライハンによってはじめて日本へ使徒が派遣され、文永5年(1268)大宰府に使節団が到着します。
この時、日本では鎌倉幕府に北条時宗が8代執権に就任したばかりであり、また中国大陸におけるモンゴル軍の暴虐なども報告されていたため、あらかじめ元軍の襲来に備えるよう御家人たちに伝えられていました。
同年、フビライハンは日本の征服を正式に表明し日本への侵攻ルートを調査させるなど行います。
その後、フビライハンは日本へと使者を文永9年(1272)までに数回派遣し翌年の、文永10年(1273)には、日本侵攻計画の準備を開始しました。
日本の対応
このように日本の征服を表明した元軍に対して鎌倉幕府の執権・北条時宗は東国御家人に鎮西で元軍の警固をさせるため、戦場となる鎮西の悪党の討伐を命じ、また元軍の襲来が予想される沿岸に異国警固番役を設置するなどを行いました。
文永の役
対馬侵攻
文永11年(1274)10月5日に元軍は15,000から25,000人の主力軍、5,300から8,000人の高句麗軍、726から900艘の軍船が対馬の小茂田浜に襲来しました。
この際、対馬守護代・宗資国が通訳を通し、元軍に日本へ来た理由を尋ねたところ、軍船から矢を放ってきたとされています。
約1,000人の元軍が上陸し攻めてきたため宗資国が応戦するも、元軍によって佐須浦は焼き払われました。
この戦いによって対馬勢は戦死したとされています。
対馬での元軍の残虐行為
元軍は対馬で罪のない多くの住民たちを殺害したとされ、その殺戮はとてもむごいものでした。
元軍に捕らえられた女性は、元軍の盾として立たされ、また元軍に捕らえられた子供200人は、労働力になるとしてフビライハンの娘・クトゥルクケルミシュに献上されるなど非人道的な行為が行われました。
壱岐侵攻
対馬に続き、同年10月14日には壱岐島にも元軍は侵攻を開始しました。
壱岐守護代・平景隆が100余騎で応戦するも敵わず、翌日に平景隆は自害します。
肥前沿岸襲来
その後、元軍は肥前沿岸に向かい松浦党の肥前の御家人が応戦するも戦死となります。
博多湾上陸
同年10月20日に博多へと上陸すると、元軍と総大将・少弐景資率いる日本軍との赤坂の戦いが始まります。
この戦いでは、赤坂は馬の足場の悪い土地であったため騎射を基本とする元軍は戦闘となると不向きな環境でした。
そのため、この戦いでは元軍を敗走させることに成功しています。
その後も日本軍は逃げた元軍を追って戦闘を繰り返します。
鳥飼潟の戦い
逃げた元軍を追った日本軍でしたが、元軍に再び攻撃を受けます。
元軍の放つ矢は、威力が弱いものの、矢先に毒が塗られており日本軍は元軍に立ち向かう術がありませんでした。
また、討死となった日本兵や死んだ馬などを食べていたとされ、このような元軍に立ち向かう者は現れなかったとされています。
文永の役における元軍の撤退
元軍に立ち向かうことができなかった鳥飼潟の戦いでしたが、元軍は神風と呼ばれる暴風雨によって撤退を余儀なくされます。
神風の真実
鳥飼潟の戦いで戦況を優位につけた元軍が、船で一夜を明かそうとしていた矢先に、この神風と呼ばれる暴風雨が元軍の船を襲い、元軍の撤退によって日本軍の勝利に終わったと一般的には知られています。
しかし、気象学的に見ても過去の統計からこの時期の台風は見られず、また元軍が鳥飼潟の戦いで苦戦し撤退した様子を『高麗史』、『帝王編年記』、『五檀法日記』などに記載されているため、元軍の撤退の理由は神風ではなく、鳥飼潟の戦いで元軍が日本軍に苦戦したため撤退に追い込まれたことが真実となります。
鎌倉幕府による元軍の討伐
元軍を撤退させた鎌倉幕府は、元軍に対し、高句麗に侵攻して元軍の討伐計画を立てます。
また、再び元軍が博多に攻めてきた際にそなえ石築地などが築造され、多くの軍勢や船舶を博多に集結させました。
しかし、石築の築造に多くの人員と費用を要したことから、日本軍の高句麗侵攻は中止に終わります。
弘安の役
弘安4年(1281)再び元軍は、約140,000から156,989人の兵力を率いての日本へと向かいました。
対馬、壱岐侵攻
同年5月21日、対馬に上陸した元軍は日本軍の攻撃を受けるも、5月26日には壱岐に襲来します。
ここでも日本軍は防衛しますが、元軍によって占領されてしまいました。
その後、元軍は博多湾に向かいますが日本軍が築造した約20kmにも及ぶ石築地で日本軍は戦う姿勢を見せたため元軍は博多湾からの上陸を諦め志賀島に上陸します。
志賀島の戦い
志賀島に上陸した元の東路軍に日本軍は2手に分かれ総攻撃を行いました。
この戦いでは日本軍が勝利をお収め、元の東路軍は壱岐島で後衛隊である江南軍を待つことにしました。
しかし、江南軍は平戸島が船を船舶するのが便利だと知り壱岐島を目指さず、平戸島を目指すこととなります。
壱岐島の戦い
日本軍は壱岐島にいる東路軍に対し総攻撃をしかけます。
この戦いの結果、日本軍の総攻撃によって東路軍は壱岐島から脱出し平戸島へと向かいました。
こうして、東路軍と江南軍は合流を果たします。
鷹島沖海戦
鷹島沖に停泊されていた元軍の船に日本軍が攻撃を仕掛けたことのよって鷹島沖海戦が始まりました。
この戦闘の詳細な史料は残されておらず明確なことは分かっていません。
しかし、鷹島沖ではこの時、潮の満ち引きが激しかったため元軍の上陸は難しかったとされています。
7月30日の夜、元軍の多くの船は台風によって破損しました。
この台風に軍船の約4,000隻のうち約200隻しか残らなかったとされ元軍にとっては甚大な被害となります。
この被害によって多くの兵力と軍船を失った元軍の范文虎は、残った船で兵士たちを鷹島に残し、栄へと帰りました。
鷹島掃蕩戦
こうして鷹島に残された元軍の兵たちは日本軍によって総攻撃を受け元軍は壊滅し日本軍の勝利となり、弘安の役は幕を閉じました。
最後に
歴史の授業では、文永の役の際、神風によって元軍は撤退したと習いましたたが、元軍が苦戦を強いられたため撤退をよぎなくされたということが真実です。
結果的に元軍に勝利しましたが、元軍に行われていた非人道的なむごい殺戮は恐ろしいもので、鷹島掃蕩戦において戦場となった鷹島には血崎、胴代、首除といった戦闘の恐ろしさを物語る地名が残されています。