東インド会社とは?紅茶や現在、オランダやイギリスについて解説!

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東インド会社とは、アジア貿易を目的に設立された勅許会社です。

イギリスが1600年、世界で初めての東インド会社を設立して以降、1602年にオランダ東インド会社、1604年にフランス東インド会社が続けて設立されました。

オランダ東インド会社とイギリス東インド会社はジャワ島バンテン、台湾、マレー半島のマラッカなどに商館を建設し、香辛料や紅茶などの販売を行います。

もちろん日本の平戸にも商館は建設されるも出島へと移動となり、その後、幕末・開国までの約200年間もの間、日本人との交易を行いました。

そんな東インド会社の歴史と日本とオランダやイギリスとの関係性、現在について解説していきます。

東インド会社とは

東インド会社は1600年にイギリスで誕生した、アジア貿易を目的とした勅許会社です。

イギリス東インド会社が1600年に設立されると、オランダやフランスもまた同じ目的を掲げ東インド会社を設立しました。

この設立に至った経緯と時代背景を解説していきます。

 

設立までの経緯と時代背景

バスコ・ダ・ガマがインドで交易を行う

東インド会社が1600年にイギリスで誕生する約100年前、探検家バスコ・ダ・ガマという人物がポルトガル王マヌエル1世の命令で1497年7月、教会を探すこと、香料を手に入れることを目的とした、航海に出ます。

目的地はインドでした。

ポルトガルからの航海は過酷なもので、東インドで交易を始めたとしても既に中国商人たちが商売を行っていました。

このような厳しい状況の中、交易を行い、香料や珍しい宝石などを手に入れることができましたが友好的な関係を築くことができず、バスコ・ダ・ガマの行った交易は1498年8月に終わります。

 

インド洋一帯をポルトガルが支配する

しかし、このバスコ・ダ・ガマの行った交易はポルトガルだけではなく地中海の諸国に衝撃を与えます。

なぜなら当時インドという国はまだ、存在自体も曖昧であったからです。

しかし、東インドでの商売は利益があると分かっても、航海の過酷さや交易の困難さから、東インドで交易を行う者はいませんでした。

そこでバスコ・ダ・ガマは1502年2月、2度目となる航海を行います。

もちろん目的地は東インドで、この際、大砲を積みインドに上陸するまでの航海途中、立ち寄った港町を制圧しました。

また東インドに到着すると東インドの港街も制圧し、その後10年の間でインドの主要な港町はポルトガルの支配下となります。

こうして15世紀後半から16世紀の間、ポルトガルがインド洋一帯の交易を掌握しました。

インド洋一帯の交易を掌握することで香辛料の独占を図りましたが、インド洋一帯を制圧するには、設備が必要で、その設備には膨大な維持費用が必要となり、やがて体制を維持することが困難となっていきます。

 

ポルトガルがスペインの支配下となる

そんな中、ポルトガルが1578年、イスラム軍と交戦し大敗します。

この際、世継ぎのいなかった国王も亡くなり王家は途絶えることとなり、ポルトガルはスペインの支配下に入りました。

この時もまだ東インドへの航海・交易は続いており、スペインの支配下となったものの、ポルトガルが中心となって東インドとの交易を行っていました。

 

オランダも東インドとの交易を開始する

一方、この時オランダは商売が盛んな国でした。

そんなオランダも東インドとの交易に目を向けます。

こうして1595年オランダを出発した船は東インドに到着し、過酷は船旅で多くの犠牲者を出すも、多くの商品を手に入れることができ交易は成功となりました。

これを受け、オランダ国民たちはこぞってポルトガルより多くの船を準備し東インドへ渡るようになります。

 

イギリスも東インドとの交易を開始する

このようなポルトガル、オランダの成功をイギリスは見ていました。

当時、イギリスとポルトガルは友好関係であったため、オランダが東インドとの交易に成功したことに納得はいかず、触発されイギリスも東インドに向けて航海を開始します。

この頃、イギリスは地中海東岸地域との貿易を専門に行うレヴァント会社を設立していました。

イギリス東インド会社の設立

このレヴァント会社もまた東インドへの航海を始めます。

レヴァント会社は航海するにあたり必要な資金を募り始め、レヴァント会社の関係者が出資しする形で東インド会社が設立されました。

レヴァント会社は貿易商人の組合に近い会社でしたが、東インド会社は資金集めだけでなく労働力も保有する会社として設立されます。

これまで、ポルトガル、オランダがインとの交易を行ってきましたが、東インド会社を設立したのは交易を遅れて開始したイギリスでした。

こうして設立された東インド会社は東インドとの貿易の独占権の許可をエリザベス1世に要請すると、許可が下りたため、武装船隊を率いて東インドへと向かい、交易を開始しました。

 

オランダ東インド会社の設立

イギリス東インド会社が東インドで交易を始める一方、それよりも前から交易を行っていたオランダは複数の貿易会社を抱えていました。

複数の貿易会社は競うように東インドで交易を行っていましたが、安定した利益を得るためには一致団結しなければならないと考え、複数あった貿易会社同士が手を結び連合東インド会社が設立されます。

連合東インド会社はオランダ東インド会社とも呼ばれています。

 

日本での貿易

東インドと交易を行っていたオランダ東インド会社はジャワ島のバンテン、台湾、マレー半島のマラッカ、スマトラ島、スリランカ、また1609年、長崎の平戸などに商館を建て交易を開始します。

一方、イギリス東インド会社もジャワ島バンテン、南インドのマドラスや中国の広東、1613年、長崎の平戸に商館を建てました。

この頃になるとイギリス東インド会社とオランダ東インド会社はアジアでの貿易を巡って衝突を繰り返していました。

イギリス東インド会社が日本に商館を置いた約10年後、インドネシアのアンボイナ島にあるイギリス商館がオランダ人に襲撃されるといった事件が起きます。(アンボイナ事件)

これによってオランダが東インドの香料を独占するようになりイギリス東インド会社はアジアでの貿易から身を引く形となり平戸のイギリス商館も閉鎖となりました。

その後、1941年になると平戸にあったオランダ商館は出島に移動となり、出島での交易を開始します。

この交易は幕末から開国までのおよそ200年間続きました。

 

東インド会社の貿易商品

東インド会社は主に東インドの名産である香辛料、綿織物、また日本から茶葉を持ち帰りました。

この中でも茶葉はオランダ東インド会社が1610年に長崎の平戸から持ち帰ったという記録が最も古いものとされています。

イギリスで茶葉の販売が開始されたのは1657年とされています。

当初、緑茶が販売されていたとされていますが、どのような経緯でイギリスにおいて紅茶が広まったのは未だわかっていません。

 

フランス東インド会社の設立と衰退

イギリス東インド会社、オランダ東インド会社のみならず、1664年になるとフランスでも東インド会社が設立されました。

同時にアメリカ大陸との交易を行う専門の西インド会社も設立します。

フランスだけではなくスウェーデンやデンマークも東インド会社を設立しましたが、発展には至りませんでした。

しかし、フランスの東インド会社は18世紀に入りイギリスとの間で戦争を繰り返したためフランスの東インド会社は1796年には衰退となりました。

 

オランダ東インド会社とイギリス東インド会社の最期

東インドでの独占権を得たイギリスでしたが、国内で独占的に貿易をこれまで行ってきた東インド会社に対する反発が増え始め1813年に東インドでの貿易の独占権を失います。

またインドにおいてもイギリス東インド会社による長年の支配に反発を起こし1857年、インド大反乱と呼ばれる大反乱を起こしました。

この結果、イギリス東インド会社は解散となります。

またオランダも相次ぐ、戦争の影響から1799年には解散となっています。

 

現在の東インド会社

東インド会社は解散となりましたが、今でも「東インド会社」の名前を使用しロンドンに店舗が構えられています。

2010年にインド人の実業家サンジブ・メフタが「東インド会社」の名称と商標の使用許可をイギリス大蔵省に出願し、これが認められ135年ぶりに企業名として東インド会社は復活しました。

現在、ロンドンに店舗が構えられ輸入食品や宝飾品の販売が行われています。

 

最後に

バスコ・ダ・ガマが東インドで交易をはじめ、その約100年後にイギリス東インド会社が設立されました。

その後、オランダ東インド会社が設立され、両社は競争し各国に商館を建設します。

長崎の平戸もその1つで、様々な異国の品物を庶民は目にすることとなり、その中でも生糸と砂糖はその後の、日本の衣服や食文化や大きな影響を与えることとなりました。

また鎖国体制が始まり、出島での交易が始まると幕末から開国までの間も交易は続けられ、日本の文化発展に大いに貢献しました。