卑弥呼とは弥生時代後期から古墳時代前期にかけて邪馬台国の女王として鬼道と呼ばれる呪術を使用し、国を治めていたとされる女性です。
卑弥呼に関する史料は日本に全く残されていませんが、当時の中国の歴史書である『魏志倭人伝』などには卑弥呼に関する記述が残されています。
そんな、卑弥呼の生涯や活躍した時代、天皇家との関わりや墓について解説していきます。
卑弥呼の登場
卑弥呼に関する史料は日本に全く残されていません。
しかし、中国の歴史書『魏志倭人伝』には卑弥呼に関する記述が残されており、この書物から卑弥呼の生涯や人物像が分かってきました。
卑弥呼が誕生したのは分かっていませんが、『魏志倭人伝』によると239年以前、倭国(日本)では70年間から80年間もの間、男性が王として国を治めていましたが、その後、内乱が起きると女王(卑弥呼)がたてられたとされています。(倭国大乱)
『梁書』には178年 から184年の間に卑弥呼が女王となったと記されています。
つまりこれらの時代は弥生時代にあたるため、卑弥呼が活躍した時代は弥生時代ということととなります。
当時、日本は約100ほどの国が存在していました。
そのうちの約30の国をまとめ、その中心となったのが邪馬台国で、倭国の王となった卑弥呼は邪馬台国に都を置いたとされています。
王となった卑弥呼
王となった卑弥呼は鬼道を行いながら国を治めました。
この鬼道が一体どのようなものなのかは分かっていませんが、『魏志倭人伝』には「輒灼骨而卜、以占吉凶」と記されているため、占いを指す卜術を行う巫女であった可能性が高いとされています。
しかし、中国の史書には黎明期に行われた中国道教のことを鬼道と記している例もあるため卑弥呼の行った鬼道は、道教を指すのではないか。と指摘されています。
国を治めたとき卑弥呼は既に高齢であったとされ、夫はおらず、自身の弟が卑弥呼の補佐をしました。
王となってから卑弥呼の姿を見た者は少ないとされ、卑弥呼に食事を給仕するたった1人の男子だけが卑弥呼の元に出入りしていたとされています。
中国歴史書から分かる卑弥呼の年譜
中国の史書『魏志倭人伝』の他に『三国志』や『後漢書』などからも卑弥呼の年譜を知ることができます。
『三国志』に記述される卑弥呼の年譜
中国の史書『三国志』によると景初二年(239)12月、卑弥呼は初めて魏(中国)に使いを派遣しました。
その使いは難升米という人物であったとされ、魏から金印と銅鏡100枚が与えられたとされています。
この時、「親魏倭王」という肩書きも与えられました。
これは、卑弥呼が魏に日本を治める王として認められたということとなります。
翌年の、正始元年(240)になると魏の使者が日本に訪れ詔書、印綬を卑弥呼に拝受しました。
その後、正始八年(247)には魏から倭国に使者が送られると、邪馬台国と対立していた狗奴国(倭国の国)との戦いを報告しています。
時期は不明とされていますが、卑弥呼が亡くなると墓が作られたと記述されています。
卑弥呼亡き後、後継者となったのは男性でしたが国が混乱し多くの犠牲者が発生したため、卑弥呼の宗女であった壹與(いよ)が13歳にして国王となりました。
その後、日本の混乱は治まったとされています。
『後漢書』に記述される卑弥呼の年譜
中国の史書『後漢書』には卑弥呼に関してこのような記述がされています。
建武中元二年(57)、倭国に金印を授与されると、146年から189年に倭国で内乱(倭国大乱)が発生し、189年前後、卑弥呼が王となったと記述されました。
卑弥呼の死
『魏志倭人伝』の247年、邪馬台国と対立していた狗奴国の男王・卑弥弓呼との戦いの紛争を魏の使いに報告した文章の中に、卑弥呼の死に関する記述が残されています。
卑弥呼の死に関する記述には没年などの記載はありませんが、卑弥呼は247年または248年に亡くなったと考えられ、また卑弥呼は、対立していた狗奴国の男王・卑弥弓呼に殺されたとも推測されています。
卑弥呼の墓
卑弥呼が亡くなると、卑弥呼は径百余歩の墓に葬られた。と記述されています。
『魏志倭人伝』の行程の表記から短里を採用していると考えられ、一歩は0.3m、卑弥呼の墓は径は30m前後と推測されました。
卑弥呼の墓がどこにあるかはまだ分かっていませんが、卑弥呼の亡くなった時期が弥生時代から古墳時代への移行期であるため、邪馬台国が畿内にあったとすれば、卑弥呼の墓は古墳である可能性が高いとされています。
そのため、現在の奈良県桜井市箸中にある箸墓古墳が卑弥呼の墓と考えられています。
一方、邪馬台国が四国にあったという四国説において、卑弥呼の墓は徳島市国府町にある八倉比売神社と考えられています。
また邪馬台国は九州にあったという九州説では、九州にある平原遺跡、石塚山古墳、祇園山古墳が卑弥呼の墓である。と考えられました。
しかし、これらの古墳は『魏志倭人伝』に記載されている卑弥呼の墓とは矛盾する点があるため、卑弥呼の墓がどこにあるかは未だ謎のままです。
卑弥呼と天皇家との関わり
天照大神は『古事記』や『日本書紀』の中で天皇の祖神とされています。
実在した天皇の平均在位年数などから日本神話に登場する天照大神の生きていた時代と卑弥呼の生きていた時代が一致し、また卑弥呼は自身の補佐役となった弟がいたのに対し、天照大神にも弟がいたということから、卑弥呼は天照大神であると日本史研究家・安本美典さんは推測されています。
他にも天照大神だけではなく、卑弥呼は第14代天皇である仲哀天皇の皇后・神功皇后であったとも考えられています。
しかし、神話に登場する神々を生存した歴史上人物として見ることは難しく、卑弥呼が天照大神、または神功皇后だったという説は信憑性が疑われる部分が多く残っています。
まとめ
弥生時代に存在したとされる卑弥呼は非常に謎の多い女性でした。
日本の史書には卑弥呼の年譜や生涯は残されておらず、また邪馬台国や卑弥呼の墓がどこにあったのか分かっていません。
そのため、卑弥呼は天皇の祖神であった天照大神であったという説や、第14代天皇・仲哀天皇の皇后・神功皇后であったという説が誕生しましたが、信憑性に欠けたものとされています。