井原西鶴とは江戸時代に活躍した浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳諧師です。
15歳で俳諧師を志した井原西鶴は、俳諧の一派であるし談林派を代表する俳諧師となっただけではなく、天和2年(1682年)に『好色一代男』を出版すると、瞬く間に人気を得その後『好色五人女』『日本永代蔵』『世間胸算用』などを出版しました。
そんな浮世草子・人形浄瑠璃作者でもあり俳諧師でもある井原西鶴の生涯や代表作品『好色一代男』、小説「日本永代蔵」や俳句について解説していきます。
井原西鶴の生い立ち
井原西鶴は寛永19年(1642年)頃、大阪の難波で誕生しました。
本名は平山藤五とされていますが、明確には分かっていません。
俳諧師として
明暦2年(1656年)、15歳となった井原西鶴は俳諧を志すようになります。
どのような経緯があったのかは分かっていませんが、寛文2年(1662年)には俳諧の評点を行う点者となります。
延宝元年(1673年)春、井原西鶴は大坂の生國魂神社の南坊で万句俳諧の興行を行いました。
そこで行われた興行は後日『生玉万句』として出版され、そこには「世こぞつて濁れり、我ひとり清(すめ)り」「賤(やつがれ)も狂句をはけば、世人阿蘭陀流などさみして、かの万句の数にものぞかれぬ」「雀の千こゑ鶴の一声」などが記され、井原西鶴は自らの新風を強調したのでした。
井原西鶴は30代頃に俳人・西山宗因の弟子になったとされ師匠である西山宗因のの名前から1文字取り「西鶴」と名乗り始めます。
妻を亡くす
延宝3年(1675年)井原西鶴が34歳になった頃、妻を亡くします。
いつどこで出会ったのかは分かっていませんが、妻を亡くした井原西鶴は1,000句の俳句を詠み追善興行を行いました。
この時に詠まれた俳句は後に『誹諧独吟一日千句』と題し出版され、大阪で活躍していた俳諧師105名の追善句も掲載されました。
妻を亡くした井原西鶴は同年に剃髪し出家します。
俳句
延宝5年(1677年)3月には大坂の生國魂神社で1日に1,600句もの俳句を詠み、その俳句を同年5月『俳諧大句数』と題して刊行します。
井原西鶴はこの『俳諧大句数』で1日に1600句も詠んだと自慢げに語りましたが、9月に月松軒紀子が1,800句の独吟興行を行ったため、井原西鶴の記録は抜かれてしまいました。
また延宝7年(1679年)には大淀三千風が3,000句の独吟興行を達成します。
そのため井原西鶴は負けじと延宝8年(1680年)5月7日、生國魂神社内で4,000句の独吟興行を行い、貞享元年(1684年)には摂津住吉の社前で23,500句の独吟興行を達成しました。
浮世草子を出版
師匠・西山宗因が亡くなった天和2年(1682年)10月、井原西鶴は浮世草子の第一作『好色一代男』を出版します。
作家として活動を始めた井原西鶴は処女作『好色一代男』を出版すると瞬く間に人気を得ることとなりました。
翌々年には当時、人気絵師であった菱川師宣が挿絵を担当した江戸本も出版されます。
『好色一代男』
井原西鶴が出版した『好色一代男』とは庶民男性の自由気ままな人生が描かれた作品で、この作品に登場する庶民男性が理想的な生き方だと庶民の間で考えられ、人気を得ることとなったのでした。
当時の人々の思いをそのまま主人公に反映させたこの作品は、これまでになかった斬新な切り口をした作品であったため「浮世草子」と呼ばれるようになります。
また官能性が非常に高い作品であるため好色物と括られ、以後、井原西鶴は天和4年(1684年)に『諸艶大鑑』、貞享3年(1686年)に『好色五人女』『好色一代女』と好色物を立て続けに出版します。
しかし、その後は雑話物や武家物と呼ばれるジャンルの小説を書き始めるようになりました。
浄瑠璃『暦』を制作
天和3年(1683年)正月、井原西鶴は役者評判記『難波の貌は伊勢の白粉』を刊行、貞享2年(1685年)には浄瑠璃『暦』を制作します。
この『暦』とは浄瑠璃太夫である宇治加賀掾のために書かれたものとされています。
井原西鶴の最期
元禄6年(1693年)8月10日、井原西鶴は51歳で亡くなります。
同年冬に、遺稿集として『西鶴置土産』が出版され、そこには辞世の句ともいえる「浮世の月見過しにけり末二年 」が載せられました。
井原西鶴の死後、『西鶴織留』『西鶴俗つれづれ』『西鶴文反古』など立て続けに遺稿集の出版が行われました。
井原西鶴の代表作品
井原西鶴の代表作品は『好色一代男』ですが、他にも『日本永代蔵』『好色五人女』『世間胸算用』などが代表作品として上げられます。
井原西鶴の再評価
井原西鶴は同時代では人気作者であったものの、江戸末期になると井原西鶴の存在は忘れられていました。
しかし、明治時代に活躍した作家・淡島寒月が井原西鶴を再評価したことによって、明治時代以降も井原西鶴の功績は称えられるようになったとされています。
まとめ
井原西鶴は江戸時代に活躍した浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳諧師でした。
小説や浄瑠璃も書くことができ、また俳句も詠めるといった多彩な才能を持った井原西鶴は、江戸時代は有名な作者であったものの、江戸時代末期になるとその存在は薄くなってったとされています。
しかし、明治時代に活躍した作家・淡島寒月が再評価したおかげで、明治時代以降も井原西鶴の名前は残されるようになったのです。
明治時代、井原西鶴に影響された作家は多くいたとされ、尾崎紅葉や樋口一葉もそのうちの1人とされています。