太平洋戦争終結から70年以上の月日が流れ、戦争の記憶が徐々に薄れているように感じられますが、現実に太平洋戦争は存在し世界各地で多くの人が被害を受け、亡くなっています。
今回は太平洋戦争中に日本軍が行った作戦の中で、史上最悪の作戦と後世に伝えられているインパール作戦を取り上げます。
この作戦を立案、指揮した牟田口廉也(むたぐちれんや)中将についてや、作戦に参加した人々の証言や作戦の逸話を、作戦の経緯とともに解説していきたいと思います。
日本陸軍によるインド侵攻構想
1944年(昭和19年)3月8日に日本陸軍により開始された日本側作戦名・ウ号作戦のことをインパール作戦と言います。
ビルマ攻略戦が予定より早く終結したため、インド侵攻作戦の構想を持っていた日本陸軍がインド北東部でビルマから近い位置にあるイギリス陸軍の拠点であるインパールの攻略を目的とした作戦を具体化させ、二十一号作戦として準備が開始されました。
この作戦には第15師団と第18師団の2個師団が当てられることとになりましたが、第18師団長であった牟田口廉也中将や第15師団長が雨季による補給の困難などを理由に反対を唱えたのと、ガダルカナル島の戦いの戦局が予断を許さなくなったため、二十一号作戦は一旦保留となります。
インパール作戦の立案
1942年(昭和17年)10月に入るとイギリス陸軍の日本軍への反撃が開始され、太平洋ではアメリカ軍との戦闘が激しくなり、日本陸軍は防衛体制の刷新に迫られます。
その結果、1943年3月に河辺正三(かわべまさかず)中将を方面司令官にしたビルマ方面軍が創設され、所属部隊の第15軍司令官に牟田口中将が就任しました。
太平洋および東南アジアでの戦局を考慮した牟田口中将は、以前のインド侵攻に反対する立場からイギリス軍の拠点であるインパールを攻略し、インドへの侵攻を主張するようになっていました。
牟田口中将は日本軍がインパールを占領し、インドのアッサム地方へ進出すればインド独立運動が活発化し、イギリス軍の行動が制約されると考えていたからです。
牟田口中将はこれを武号作戦と名付けて推進しようとしましたが、第15軍参謀長・小畑信良(おばたのぶよし)が強硬に反対したため、牟田口中将は河辺司令官の承諾を得て、着任してわずか1月半の小畑少将を解任しました。
動き出したインパール作戦
太平洋での対米戦略で人材や兵力、装備を引き抜かれた後に創設されたビルマ方面軍は、アジア地域の地理や戦局、政治情勢に疎い幹部が集結することになり、古参である牟田口中将の存在価値が高くなりました。
その上、反対派の小畑少将が解任されたため、誰も牟田口中将に反対することが難しくなります。
南方軍首脳部も大本営参謀部も基本的にはこの作戦を支持していたのですが、インパール攻略後のアッサム地方への進出は兵站(へいたん、補給や全線部隊への後方支援のこと)の点から難しいと問題視されていました。
しかし、河辺ビルマ方面軍司令の最終判断は我らが決断するの言葉でこれ以上の論議が遮られました。
1943年8月、インパール侵攻の準備命令を出した大本営に、南方軍司令部はあくまでもインパールへの限定侵攻との修正を出しますが、河辺ビルマ方面軍司令官は修正をすることはなく、第15軍牟田口中将もアッサム侵攻を諦めることなくこの修正を完全に無視しました。
悲劇の進行作戦開始
牟田口司令官は各部隊長を召集した命令伝達の中で、「物資や食料は敵に求める」「敵に遭遇したら銃を空に3発撃て。そうすれば敵は降伏する話がついてる。」と発言し、部隊長らはこの発言に牟田口司令官の本心を疑わざるをえませんでした。
1944年(昭和19年)1月、ついに大本営から作戦遂行の命令がくだされ、南方軍に発令されました。
太平洋ではアメリカ軍に対して不利な戦闘を続けており、敗色が濃厚になる中で戦局打開を期待する首脳部の思惑も重なった上に、1943年10月に作戦実行に強硬な反対をしていた南方軍の稲田正純(いなだまさずみ)総参謀副長が解任され、インパール作戦に反対する声はなくなってしまいました。
インパール作戦開始前に行われたハ号作戦(インド国境に駐留するイギリス軍殲滅作戦)が失敗に終わったにも関わらず、本作戦は中止どころか修正案すらされることはありませんでした。
作戦開始時の状況
日本軍の参加兵力は第15軍49,600人を主力とした90,000人、これにインド独立を支持するインド国民軍6,000人が加わっていました。
連合国軍はインド駐留イギリス軍を中心に約15万人が待機しており、空輸による補給体制や重火器も装備されており反撃体制は整っていました。
1944年3月8日、輸送部隊の補充も物資の補給もままならないままに侵攻作戦が開始され、三方面からインパールを目指して進軍を開始しました。
しかし、開始直後は順調であった作戦もすぐに破綻し始めます。
物資不足を補うために考案されたジンギスカン作戦(牛や水牛、羊に荷物を積んで運び、必要に応じて牛や羊を食用に利用する)はチンドウィン川渡河作戦で物資の大半が失われ、進路途中のジャングルや山岳地帯のために次々と脱落し失敗に終わります。
日本軍の進軍中に行われる連合国軍の爆撃や輸送部隊の壊滅によって兵士自らが物資輸送を担当することにより、前線に部隊が展開するときには日本軍の兵士は疲労のピークに達していました。
膠着状態に陥った戦線
物資や弾薬の不足する前線部隊は司令部に補給を求めますが、司令官の牟田口中将は至急送るとの返信しましたが司令部から十分な物資が送られることはありませんでした。
あげくには食料は敵から奪えとの命令が届きます。
戦車や強力な火砲で守りを固めるイギリス軍は制空権を握る連合国軍の空輸による補給で長期戦に耐えられる状況となり、戦線は膠着状態に陥ります。
物資の不足する日本軍は、投下される連合国軍の物資を略奪する特別部隊を編成するなどして飢えに耐えますが、日本軍がインパールから15㎞地点に到達したところで連合国軍の反撃が激しくなり、進撃の足が止まっしまいました。
雨季に入り、日本軍の補給線が伸びきったところでイギリス軍の本格的な反抗作戦が始まると、空爆やイギリス陸軍の進撃により日本軍の部隊はあちらこちらで寸断されていきます。
このため補給が完全に途絶えてしまう部隊が続出し、衰弱した兵士の間でマラリアの感染が拡大し作戦続行が徐々に不可能になっていくのでした。
牟田口司令官と佐藤師団長の対立
戦線の維持が難しい状況になっても牟田口中将はインパール侵攻を諦めず、各部隊に前進を言明します。
しかしこの時、牟田口中将がいた第15軍司令部は前線から離れること400㎞も後方にあり、軍部全体からの風当たりが強くなったため、牟田口中将は司令部を前進させインパール侵攻を続行させます。
マラリアの拡大、戦病者の増加などのなかで、弾薬が尽きて投石で戦闘する部隊が現れるに至って、第31師団長・佐藤幸徳(さとうこうとく)中将は再三再四、司令部に対して撤退を進言します。
しかし、牟田口司令官はこれを拒絶し作戦続行を命令したため、佐藤師団長は指揮下の部隊長を集めて撤退を指示、司令部に対して「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」の電文を送り、司令部の命令なく独断で撤退を開始しました。
日本陸軍初の抗命事件、そして撤退
佐藤師団長の撤退命令は司令部の命令を無視、拒絶するという陸軍刑法第42条に反しており、師団長という要職の人物が命令に従わない日本陸軍最初の抗命事件となりました。
牟田口司令官はこれに激怒して佐藤師団長を更迭、また第33師団長・柳田元三(やなぎたげんぞう)中将、第15師団長・山内正文(やまうちまさふみ)中将も佐藤師団長と同様に撤退を進言したため、牟田口司令官はこの二人も更迭し、第15軍は実質的に崩壊してしまいました。
ここに至って作戦の失敗、部隊の撤退の必要は火を見るよりも明らかでしたが、河辺ビルマ方面軍司令官と牟田口中将はお互いが責任を負うことを恐れて撤退を口に出せず、むやみに時間だけを費やしてしまい、その間にも前線での死者は増え続けていたのです。
7月3日、軍部は遂に作戦中止を決定して各部隊に通達、参加90,000人に対して帰還者12,000名という状態で、帰還兵もほとんどが傷つき、杖を頼りに歩くのがやっとという惨状だったと言われています。
牟田口廉也という人物を表した言葉
撤退した部隊長を召集した訓示で牟田口中将は次のように述べています。
「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…」
出典元:『責任なき戦場』
作戦立案の不備や司令部の判断などよりも精神論が陸軍の原泉であるという考え方が中将という高級軍人のなかにもあったのでは、近代化していった第二次世界大戦を勝利することは出来なかったのは当然ではないでしょうか。
インパール作戦に関わった人物のその後
牟田口廉也中将
インパール作戦失敗の後の1944年8月、第15軍司令官を罷免されて参謀本部附となり、12月には予備役となる。
1945年1月予備役召集で陸軍予科士官学校長となりそのまま終戦を迎える。
河辺正三中将
インパール作戦失敗後はビルマ方面軍司令官は解任されたが、翌年3月には大将に昇進、終戦時は第1総軍司令官だった。
佐藤幸徳中将
第31師団長解任後、抗命事件により軍法会議も覚悟していたが、精神鑑定に回され第16軍司令部附となり終戦となる。
柳田元三中将
第33師団長解任後参謀本部附となり、翌年予備役となる。
その後召集されて旅順要塞司令官、関東州防衛司令官を歴任し、終戦後ソ連に抑留され1952年モスクワで死去。
山内正文中将
第15師団長解任後参謀本部附となりますが、作戦中に感染したマラリアの療養のため収容されていた病院で結核に感染し死去。
作戦に参加した他の人物
塚本幸一(つかもとこういち)
女性下着メーカー・ワコールの創業者。
第15師団歩兵第60連隊に所属、講演や著書でインパール作戦の体験を語っている。
吉原正喜(よしはらまさき)
プロ野球・東京巨人軍捕手。
インパール作戦に従軍し、作戦終了後のビルマでの戦闘で戦死、遺骨は発見されていない。
東学(あずままなぶ)
サザエさんを代表作に持つ漫画家・長谷川町子(はせがわまちこ)の姉・長谷川毬子(はせがわまりこ)の夫。
毬子と結婚後わずか一週間で召集され、インパール作戦で戦死。
インパール作戦の逸話
第33師団に着任した田中信男(たなかのぶお)少将が部隊を視察すると中隊長の軍刀が錆びているのを発見し、師団所属の将校全ての軍刀の検査をすると全員の軍刀が錆びていました。
激怒した田中少将は全ての部隊長を呼び集め、すぐに軍刀の錆を落とすことを命じたましたが、誰一人として命令に従わなかったそうです。
豪雨と泥沼の戦闘が続く戦場では錆を落としてもすぐに錆びてしまうことを将校たちが経験し知っていたからです。
作戦中止と撤退が決定し、前線の兵士が撤退し始めると牟田口司令官は撤退作戦視察のため馬に乗って出掛けました。
撤退する兵士は疲弊しきって、ほとんどのものが歩くのがやっとの状態のなかで撤退していました。
牟田口司令官が「軍司令官たる自分に最敬礼せよ」と大声で命令を出しましたが、兵士はただ声を大にして叫ぶ軍司令官の方を冷ややかな虚ろな目で見るのみで、誰一人として敬礼しようとはしませんでした。
悲惨を極めた退却戦の中で佐藤師団長の命令で、殿軍を務める事になった宮崎繁三郎(みやざきしげさぶろう)少将は歩兵第58連隊を率いて大砲を細かく移動させ、多くの火力が存在するように見せかけたり、兵士を突出させたり引き揚げたりと巧みな用兵でイギリス軍を翻弄し、追撃戦を躊躇させることに成功し、味方が撤退する時間的な余裕を作り出すことに成功します。
また宮崎少将は脱落しそうな兵士も見捨てずに収容して多くの兵士の命を救いました。
インパール作戦のまとめ
立案時点ですでに数多くの問題点を抱えていながら、太平洋戦争全体が敗戦の色を濃くするなかで、日本陸軍が無理矢理に実行したのがインパール作戦です。
当初の予測通り燃料、弾薬などの物資不足、行軍行程の無理が祟って失敗に終わりました。
動員兵力の7割以上を失い、全く何も得ることがなかったにも関わらず、指揮官の誰一人として責任を取らず終結させてしまうという、あまりにも無責任な作戦として歴史にその名を残すことになりました。
このインパール作戦を見るだけでどれほど日本軍軍部首脳が無能であり、日本が太平洋戦争に勝てる可能性が全く無かったと思えるほど、ずさんで悲惨な戦闘だったのです。