伊能忠敬は17年かけて日本各地を測量し日本地図「大日本沿海輿地全図」を完成させた人物です。
経度は北海道と九州に誤差があるものの、経度に関してはわずかな誤差しかありませんでした。
そんな伊能忠敬の生涯や、日本地図の測量方法、エピソードや子孫などを解説していきます。
伊能忠敬の生い立ち
忠敬は延享2年(1745)1月11日、神保貞恒の末子として誕生します。
幼名は三治郎で、兄と姉が1人ずついました。
父・神保貞恒は上総国山辺郡小関村の名主・小関五郎左衛門家に婿入りした人物で、伊能忠敬の母が亡くなると、婿養子であった父・神保貞恒は自身の実家の神保家に姉と兄を連れて帰ります。
忠敬は小関五郎左衛門家に残るも10歳の頃になると、父・神保貞恒に引き取られ神保家に移りました。
やがて、父・神保貞恒は再婚するも、忠敬は再婚相手とそりが合わなくなり、流浪します。
伊能家の跡取りとなる
家を出た忠敬は、父の実家である神保家の親戚にあたる平山藤右衛門に土地改良工事の現場監督として使われます。
平山藤右衛門は伊能家とも親戚関係でした。
伊能家は下総国香取郡佐原村にある酒造家で、跡取りとなる男子がいませんでした。
そこで、平山藤右衛門は親戚である忠敬が土地改良工事の現場監督として良い仕事ぶりをしていたため、伊能家の跡取りに勧め、忠敬は伊能家の娘・ミチへと婿入りし、伊能家の跡取りとなります。
こうして、忠敬は伊能の姓となり、大学頭の林鳳谷から、忠敬という名を与えられたことによって伊能忠敬と名乗るようになりました。
長男に家督を譲る
伊能家は当時行っていた酒、醤油の醸造、貸金業は当主不在の期間が長く続いていたため事業縮小傾向にありました。
このことから婿入りした伊能忠敬は家の再興のために期待されます。
翌年には長女・イネ、明和3年(1766)には長男・景敬、明和6年(1769)には次女・シノが誕生しました。
伊能忠敬は当主であったため伊能家の再興に力を注ぎます。
結果、本業である酒造業以外に薪問屋を江戸に設け、米穀取り引きの仲買をするなどして、伊能家の経営を立て直すことに成功しました。
また天明3年(1783)に起こった天明の大飢饉において貧民救済をするなどし、佐原村から1人も餓死によって命を落とすものはいなかったとされています。
妻のミチは天明の大飢饉が起こった際、重い病にかかり42歳で亡くなり、伊能忠敬はまもなくして再婚しました。
しかし、寛政2年(1790)26歳で、その妻もなくなったため桑原隆朝の娘・ノブを妻として迎えます。
この頃になると、長男・景敬は成人を迎えていたため伊能忠敬は寛政6年(1794)に家督を譲りました。
隠居し暦学を学ぶ
寛政7年(1795)家督を譲り隠居した伊能忠敬は以前から興味のあった暦学を学ぶため江戸へと向かい、深川黒江町に屋敷を構えます。
この時江戸では、改暦作業が行われていました。
この改暦には、日本で初めて月面観測を行い、当時高い評価がされていた天文学者の高橋至時と間重富が関わっていました。
高橋至時に弟子入りをする
暦学を学ぶために江戸に来た伊能忠敬は、まだ31歳の高橋至時に50歳にして弟子入りをします。
弟子入りした伊能忠敬は熱心に勉強に励み、『授時暦』と『暦象考成上下編』を短時間で理解するまでになりました。
天体観測にも興味を持っていた伊能忠敬は観測技術を間重富から学び、測量器具なども買い揃え、自宅で天体観測を行っていたとされています。
観測技術の習得は難しく、伊能忠敬は毎日観測の練習を行いました。
入門して4年目となる寛政10年(1798)の時点でも師匠である高橋至時には認めてもらえなかったとされています。
しかし金星の南中を日本で初めて観測したのは伊能忠敬である。という記録が残されています。
寛政9年(1797)改暦作業をしていた天文学者の高橋至時と間重富は新しい歴である『寛政暦』を完成させました。
しかし、高橋至時は『寛政暦』の精度の不満を抱き、この『寛政暦』を正確にするためには地球の大きさ、経度、緯度を知る必要があると考えます。
そこで伊能忠敬は実際に地球の直径や緯度、経緯を正確に求める測量方法を思いつき、正確な値を出すためには江戸から蝦夷地までの距離を測ることが必要と高橋至時に提案しました。
この伊能忠敬の提案に対し高橋至時は賛成します。
第一次測量
こうして伊能忠敬の提案に賛成した高橋至時は蝦夷地の測量に動き出しました。
伊能忠敬はこの時、高齢でありましたが測量技術や指導力、財力などを持っていたため測量に参加します。
当時、蝦夷地ではロシア人の択捉島上陸などの事件が起きていたため幕府は測量の許可を出せずにいました。
しかし、寛政12年4月、測量試みという目的で測量の許可が下ります。
こうして寛政12年(1800)4月19日から蝦夷地に向かい12月29日に蝦夷地の地図が完成します。
第二次測量
蝦夷測量はその正確性から幕府に評価され、第二次測量となる伊豆半島以東の本州東海岸の測量が享和元年(1801)4月2日に開始されました。
下田、三島を測量し1度、江戸へ戻ると再び江戸を発ち、房総半島、銚子などの測量を行います。
12月7日に江戸に戻ると測量データから地図を作成し、幕府に提出されました。
第三次測量
享和2年(1802)6月3日、第三次測量となる東北日本海沿岸の測量が開始されます。
10月23日に江戸に帰ると地図の作成に取り掛かり、享和3年(1803)1月15日に幕府に提出されました。
第四次測量
享和3年(1803)2月18日第四次測量となる東海、北陸の測量が開始されます。
2月25日に第二次測量の再測をするため沼津に向かい、7月5日からは能登半島を二手に分かれ測量しました。
文化元年(1804)になると、第一次から第四次までの測量をまとめた「日本東半部沿海地図」が完成します。
第五次測量
文化2年(1805)2月25日、第五次測量となる近畿、中国地方の測量が開始されます。
この時、伊能忠敬は60歳でした。
紀伊半島を1周し、大阪へたどり着くと、その後、京都、琵琶湖の測量を開始します。
4月30日、現在の山口市まで測量をしていた伊能忠敬でしたが、その最中マラリアにかかり別行動となります。
松江で治療に専念し、その後回復した伊能忠敬は再び山陰海岸を測り始め、こうして文化4年(1807)12月に地図は完成しました。
第六次測量
文化5年(1808)1月25日、第六次測量となる四国の測量が開始されます。
文化6年(1809)1月18日には江戸に着いたとされています。
第七次測量
文化6年(1809)8月27日、第七次測量となる九州の測量が開始されます。
今回の測量では病人が出たため翌文化8年(1811)に大分を発ち、5月8日に江戸に戻りました。
第八次測量
前回の測量の続きとなる第八次測量は文化8年(1811)11月25日に開始されます。
前回測量することができなかった種子島、屋久島、九州北部を測量すると、文化11年(1814)江戸に戻りました。
第九次測量
文化11年(1814)5月、伊能忠敬は江戸にあった屋敷から八丁堀亀島町の屋敷へと移ります。
文化12年(1815)4月27日、第九次測量となる伊豆諸島の測量が開始されました。
翌年の文化13年(1816)4月12日には測量を終え江戸へと戻ります。
第十次測量、伊能忠敬の最期
江戸府内において第十次測量が行われた文化12年(1815)2月3日、伊能忠敬は71歳を向かえていましたが、高齢でありながらも今回の測量にも参加します。
しかし、測量作業が終え地図の制作作業に取り掛かると文化14年(1817)頃から喘息となり文政元年(1818)4月13日に74歳で生涯を閉じました。
測量方法
伊能忠敬は当時の日本で一般的な測量方法であった、導線法と交会法を使用しました。
2点の距離と方角を連続して求める導線法を長い距離で行うと、誤差が生じるため、その修正のために交会法が用いられます。
これに加えて、遠くにある山の方位を図って測量する遠山仮目的法が使用されました。
また地図の精度向上のために、緯度と経度が正確に求めることのできる天体観測も活用されています。
伊能忠敬のエピソード
伊能忠敬は厳格な性格であったとされ、測量期間中は禁酒していたとされています。
また若いころから体が弱く測量中も病気で寝込むことがありました。
そのため伊能忠敬は食事に気を使っていたとされ、四国測量の頃、痰咳の病を患った際は、咳痰の予防のために食事療法の一環として、鶏卵を食べていたとされています。
子孫
伊能忠敬には、妻ミチとの間に伊能景敬が誕生しています。
伊能景敬
伊能景敬は伊能忠敬から家督を相続し、伊能家の当主となりましたが、文化10年(1813)6月7日に伊能忠敬より先に亡くなりました。
その後、伊能景敬の息子・伊能忠誨が家督を継ぐも文政10年(1827)に22歳で亡くなります。
伊能忠誨には子供がおらず、よって伊能忠敬の血は途絶えることとなりました。
現在に続く子孫
佐原村には伊能忠敬の子孫とされる方が多くいるとされ、また現在活躍するプロゴルファー片岡大育さんの専属キャディーである伊能恵子さんは伊能忠敬の末裔とされています。
最後に
伊能忠敬は17年にも及ぶ測量によって日本地図を作成した人物でした。
伊能忠敬の作成した日本地図は現代に見られる日本地図とあまり変わらず、測量を行った伊能忠敬らによる測量の正確さが分かります。