出雲阿国とは安土桃山時代に活躍した女性芸能者です。
出雲阿国はもともと出雲大社の巫女であったとされるため「出雲阿国」と名付けられました。
出雲から京都に上がり「ややこ踊り」を舞ったところ、人気を得ることとなり、その後「かぶき踊り」を演じるようになります。
出雲阿国が演じた「ややこ踊り」はその後様々な変遷を経て、現在私たちが目にするのできる歌舞伎へと発展したとされています。
そんな出雲阿国の生い立ちや歌舞伎に発展したややこ踊り、また京都での活動や墓について解説していきます。
出雲阿国の生い立ち
出雲阿国がいつ誕生したのかは分かっていません。
現在の島根県東部にあたる出雲国杵築中村の里の鍛冶中村三右衛門の娘として誕生したとされ、その後出雲大社の巫女となりました。
安土桃山時代にあたる文禄年間に出雲大社勧進のために各国を巡回したところ、出雲阿国の舞が評判を得ることとなったとされています。
名前について
出雲阿国の本名は分かっていません。
出雲大社の巫女であったため、また後に「クニ」と名乗りややこ踊りを踊っていた。という記録から「出雲阿国」と名付けられました。
ややこ踊りとかぶき踊り
西洞院時慶によって宮中の様子などが記された『時慶卿記』には慶長5年(1600年)に「クニ」と名乗る人物と「菊」と名乗る人物が「ややこ踊り」を踊ったという記録が残されています。
この3年後の慶長8年(1603年)に「クニ」という人物が「かぶき踊り」を始めたと考えられ、またこの「クニ」こそが出雲阿国と考えられています。
ややこ踊りとは
ややこ踊りは初め、幼い少女2人によって踊られていたものとされています。
その幼さが協調され「ややこ」と名付けられました。
かぶき踊りとは
当時、常識から外れた派手な服装や髪型、また大きな刀を持ち歩いた若い男性は傾き者と呼ばれていました。
傾き者が当時流行していた茶屋遊びを楽しむ様子を演じたものが、かぶき踊りとされています。
かぶき踊りでは出雲阿国は名古屋山三と呼ばれる男性を演じ、出雲阿国の夫・三十朗が茶屋の娘を演じました。
男装の出雲阿国、女装の三十朗が舞ったかぶき踊りは多くの評判を呼び、庶民の間で人気を博すこととなったとされています。
北野天満宮
京都で人気を得た出雲阿国は、伏見城でも演じたとされています。
また当初は四条河原に設置された仮設小屋で上演していたとされていますが、やがて京都の北野天満宮で定舞台を張るようになりました。
江戸での上演
京都で人気を得た出雲阿国やその一座はその後、京都で人気が衰え始めると江戸でも舞を演じたとされています。
江戸で演じた出雲阿国やその一座でしたが、慶長12年(1607年)江戸城で勧進歌舞伎を上演したのを最後に、出雲阿国の記録は残されていません。
しかし慶長17(1612年)4月に御所でかぶき踊りが演じられている記録があり、このかぶき踊りは出雲阿国によるものではないか。と考えられています。
出雲阿国の最期と墓
出雲阿国の晩年や最期は分かっていません。
また没年は慶長18年(1613年)または正保元年(1644年)、万治元年(1658年)などの推測があり、没年も明確には分かっていません。
墓について
出雲阿国の墓とされる墓は2つ存在します。
1つ目は出雲大社の近くにある墓です。
出雲阿国は晩年、尼になるため出雲に戻ったと考えられ、そのことから出雲大社の近くにある墓は出雲阿国と考えられるようになりました。
出雲阿国の墓とされる2つ目の墓は京都大徳寺の高桐院に存在しています。
出雲阿国がもたらした影響
遊女歌舞伎
出雲阿国が演じたかぶき踊りはその後、全国の遊女たちによって演じられることとなったとされています。(遊女歌舞伎)
男装した遊女と、遊女によって演じられた遊女歌舞伎は、出雲阿国一座が用いなかった三味線による囃子などが用いられるようになりました。
しかし、寛永6年(1629年)の江戸幕府による風紀紊乱の取り締まりや、当時強く根付いていた男尊女卑によって女性芸能者が舞台に立つことが禁じられるようになります。
若衆歌舞伎、元禄歌舞伎
また他にも12歳から17歳の少年によって演じられる若衆歌舞伎が誕生しました。
遊女歌舞伎とは違い、若衆歌舞伎は京、大阪、江戸の三都で演じられました。
遊女歌舞伎と同様に若衆歌舞伎も禁じられることとなりましたが、元禄時代にはいると元禄歌舞伎が誕生します。
その後も変遷を繰り返し、現在の歌舞伎が出来上がりました。
まとめ
出雲阿国は安土桃山時代に活躍した女性芸能者でした。
出雲阿国が演じた「ややこ躍り」は「かぶき踊り」へと変化し、その後、遊女歌舞伎、若衆歌舞伎、元禄歌舞伎など変遷を繰り返すこととなります。
現在目にすることのできる歌舞伎は様々な変遷を経てできたもので、その基となるのが出雲阿国が演じた「ややこ踊り」でした。