神武天皇とは?実在した人物なのか、また陵や卑弥呼との関係性とについて解説!

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神武天皇は天照大神の子孫とされる『古事記』『日本書紀』に登場する伝説上の人物です。

よって実在した人物ではないとされています。

大和国を平定した最初の人物とされ、紀元前660年1月1日に橿原宮で即位し初代天皇となりました。

そんな神武天皇の生涯や卑弥呼との関係性、また神武天皇の祀られる陵について解説していきます。

神武天皇の生い立ち

神武天皇は『日本書紀』によると彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の第四子として庚午年1月1日(紀元前711年)に現在の宮崎県に位置する日向国で誕生しました。

この時期は弥生時代にあたります。

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の曽孫でもあるため、神武天皇の祖先は天照大神でした。

母は海神の娘・玉依姫であったとされています。

15歳の頃に太子となると、その後、吾平津媛(あらつひめ)を妃とし息子・手研耳命(たぎしみみのみこと)が誕生します。

 

兄らとともに東征に出発

45歳の時、神武天皇は全国を制圧し大和に都を置くと決意すると、兄である彦五瀬命(ひこいつせのみこと)、稲飯命(いないのみこと)、三毛入野命(みけいりののみこと)を集め、東征を提案します。

この時、神武天皇は兄たちに東方にある美しい地(奈良盆地)を紹介しました。

この奈良盆地に都を置くという提案を兄たちに話したところ賛成を得たため自ら諸皇子と水軍を率いて大和国を目指し東征に出発します。

 

長髄彦(ながすねひこ)と対立

戊午年2月、神武天皇らは旅を経て大和国へと入ろうとしていました。

しかし、この地を支配する指導者・長髄彦(ながすねひこ)と衝突となり、この戦いで兄・五瀬命は流れ弾を受け負傷します。

この時、神武天皇は「太陽神(天照大神)の子孫である自分が太陽(東)に向かって戦うことは天の意思に逆らうことだ」と考え、兵を引き返し、船で紀伊半島の東へと回り込むこととなりました。

 

兄・五瀬命が亡くなる

同年5月、負傷していた兄・五瀬命が亡くなります。

船が熊野(紀伊半島南端の和歌山県の潮岬から三重県大王崎にかけての海域)にさしかかると海は荒れ進軍が阻まれることとなります。

これに対し、兄・稲飯命と三毛入野命が「私の母は海神である」と述べ海に入ると嵐は止みました。

熊野に上陸すると、高倉下(たかくらじ)という人物が現れ、天神から授かった神剣韴霊(ふつのみたま)を神武天皇に与えます。

その後8月になると菟田県(奈良県東部に位置する)を支配していた兄猾(えうかし)を討伐し、その弟・弟猾(おとうかし)が恭順します。

10月には八十梟帥(やそたける)を討伐、11月には奈良盆地の東南部を位置する磯城を支配していた兄磯城(えしき)を討伐しました。

長髄彦(ながすねひこ)を破る

12月、1度敗れたことのある長髄彦と決戦を行うも、神武天皇に勝ち目はありませんでした。

しかし、急に空が暗くなると金鵄(きんし)が現れ、神武天皇の弓の先にとまると、稲光のような瑞光を弓が発し、長髄彦は目を開けることができず、長髄彦は遂に降参となります。

しかし、長髄彦は恭順しなかったため饒速日(にぎはやひ)によって誅殺されました。

 

大和国の平定

己未年2月になると土蜘蛛を討ち破り、これによって大和国の平定が完了したため、この地に新たな都を定めるということを宣言します。

こうして奈良盆地南部に位置する畝傍山の東南にあたる橿原の地に宮殿を建立しました。

この宮殿こそが現在の橿原神宮とされています。

その後、9月には事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃としました。

 

即位する

宮殿を作った神武天皇は辛酉年1月1日(紀元前660年)、橿原宮で初代天皇として即位し正妃・媛蹈鞴五十鈴媛命は皇后となります。

辛酉年1月1日は現在の暦において2月11日とされ、よってこの日は日本の建国記念日とされています。

神武天皇が即位した辛酉年1月1日は紀元前660年であり、この頃、日本は弥生時代早期にあたると考えられています。

 

127歳で崩御

その後、即位してから76年目の神武天皇76年3月11日、橿原宮において127歳で崩御しました。

一方『古事記』には137歳で崩御したと記載されています。

翌年に現在の奈良県橿原市大久保町にある畝傍山東北陵に葬られ、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称されることとなります。

この時代はまだ「天皇」という称号は使われていませんでした。

飛鳥時代から「天皇」という称号が使用され始めたため、「神武天皇」という称号は死後つけられた称号となります。

 

神武天皇の陵

奈良県橿原市大久保町にある畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)は神武天皇の陵として宮内庁から認められています。

崩御の翌年にあたる神武天皇77年に葬られたとされ、『延喜式』によると畝傍山東北陵は平安時代の初め頃には確認されており貞元2年(977年)に神武天皇のゆかりの地として、国源寺が建立されます。

しかし、中世にはいると神武陵の所在も不明となりました。

その後、江戸時代の初め頃から畝傍山東北陵を探し始めたとされ、元禄時代に1度、畝傍山から東北へ約700mの場所にあった小さな円墳である福塚が神武天皇陵とされるも、文久3年(1863年)に福塚よりも畝傍山近くにあった「ミサンザイ」と呼ばれる小さな塚(現在の神武天皇陵)が神武天皇陵と認定されます。

また皇居では歴代の天皇や皇族の霊を祀る皇霊殿において伝説上の人物とされながらも他の天皇や皇族とともに神武天皇の霊は祀られています。

実在した人物ではない

神武天皇は『日本書紀』『古事記』に登場する伝説の人物です。

『日本書紀』『古事記』といった書物は朝廷が編纂したとされ、天皇家の威厳を強めるためにこのような伝説が作られたとされています。

このような伝説から神武天皇は初代天皇とされ、ギネス世界記録では日本の皇室を「世界最古の王朝」としていますが、神武天皇は伝説の人物であるため「世界最古の王朝」とはいえません。

 

卑弥呼との関係性

卑弥呼は邪馬台国の王となった女性です。

弥生時代にあたる178年から184年の間に王となったとされています。

実在した天皇の平均在位年数から神武天皇の祖先である天照大神が生きていた時代と、卑弥呼が生きていたとされる時代が一致し、また卑弥呼と天照大神には弟がいたという共通点などもあることから、卑弥呼は天照大神だったのでは。という説が存在します。

仮に、卑弥呼が天照大神ということであれば、神武天皇の先祖は天照大神であるため、神武天皇は卑弥呼の子孫ということとなります。

しかし、天照大神や神武天皇は『古事記』や『日本書紀』に記載される伝説上の人物にすぎず、卑弥呼が天照大神だった。神武天皇の先祖は卑弥呼であったという証明をすることはできません。

 

まとめ

神武天皇は『古事記』『日本書紀』の中に登場する伝説の人物でした。

卑弥呼と神武天皇の先祖である天照大神であったと考えられていますが、卑弥呼は第14代天皇である仲哀天皇の皇后・神功皇后であったという考えも存在します。

もし仮に卑弥呼が第14代天皇である仲哀天皇の皇后・神功皇后であるならば、卑弥呼は神武天皇の子孫ということとなります。

しかし、天照大神や神武天皇は伝説上の人物にすぎず、卑弥呼との関係性は無かったといえます。