壬申の乱とは?語呂合わせや年号・場所、内容などをわかりやすく解説!

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壬申の乱とは天智天皇の太子である大友皇子と吉野の皇弟・大海人皇子が皇位を巡って対立した争いです。

地方豪族を味方にした反乱者の大海人皇子が勝利し天武天皇となりました。

そんな壬申の乱が起きた場所や時代背景、壬申の乱がおきた年号の覚えやすい語呂合わせなどをわかりやすく解説していきます。

壬申の乱のわかりやすい語呂合わせ

壬申の乱は672年に起こりました。

この壬申の乱をわかりやすく年号も含めた語呂合わせは「胸に(672)短剣。壬申の乱」です。

その他にも「ろくな人間(692)ではない大海人皇子」といった語呂合わせもあります。

 

壬申の乱が起きた時代背景

壬申の乱は天武天皇(673)元年6月24日に起きました。

660年代の後半、当時の天皇であった天智天皇は白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に敗れたため、飛鳥にあった都を現在の滋賀県、近江宮に移していました。

都を近江宮に移した際、豪族や民衆の負担がかかり、不満の声があがっていたとされています。

2人の次期天皇候補

ここで、天智天皇は同母弟であった大海人皇子を立太子にたてますが、天智天皇10年(671)10月17日に天智天皇は息子である大友皇子が優秀な才能を持っていたため太政大臣とし後継させるといった意見を述べます。

大海人皇子は近江京で天智天皇の皇太子であったこともあり、次期天皇の役割を担う存在でした。

よって周囲からも、次期天皇は大海人皇子と期待されるようになります。

一方、優秀な才能を認められた大友皇子の生母は地方の豪族の娘であったことから、大海人皇子とは違い周囲は次期天皇の候補に大友皇子があげられていることを不満に思った者もいました。

このように、当時、天皇の位を継ぐ者は母親の血統や后妃の位なども重視されていました。

こうして元々、次期天皇と期待されていた大海人皇子でしたが、天智天皇の心代わりによって次期天皇の候補に大友皇子があげられると、大友皇子の次期天皇を支持する者から、大海人皇子は敵視されるようになります。

その後、天智天皇は大友皇子の次期天皇の候補にしながらも、大海人皇子に天皇の位を譲ると同年12月に46歳で亡くなります。

 

壬申の乱の経緯

天皇の位を譲られた大海人皇子でしたが、これを辞退し大友皇子を天皇に次期天皇に推薦し、自身は武器を朝廷に返し出家すると吉野宮へと移ります。

こうして大友皇子が24歳の若さで天皇の後を継ぐこととなりました。

672年5月、近江朝廷の大友皇子が天智天皇の陵の建立のため美濃と尾張の農民を集めるふりをして、大海人皇子の討伐に動いている。といった知らせが吉野にいた大海人皇子のもとに届きます。

また吉野へと食糧を運ぶ道が塞がれて、大津京から飛鳥にかけて近江朝廷の見張りがついている。ということも耳にし、大海人皇子は吉野から挙兵し、近江朝廷へと向かいました。

 

大海人皇子軍側

近江朝廷へと向かった際、美濃、伊勢、伊賀、熊野などの豪族の信頼を得ると味方に付けます。

こうして現在の伊賀である積殖で長男・高市皇子の軍と合流し、伊勢国においても豪族を味方につけました。

美濃の国へ入ると、東国と都を結んでいた不破の道を閉鎖し、2つの軍勢に分け大和と近江へと派遣します。

 

近江朝廷・大友皇子側

一方、大海人皇子の侵攻を知った大友皇子は東国と吉備、筑紫から兵力を集めるため使者を向かわしましたが、東国へと行く道は大海人皇子側によって封鎖されており、また吉備、筑紫から兵力を集めることはできませんでした。

大海人皇子の去った大和でも近江朝が兵を集めるも、大伴吹負が挙兵したため近江朝の軍と戦闘となり紀阿閉麻呂の援軍も迎えたため、近江朝は敗北となります。

壬申の乱の終わり

大海人皇子の部隊は近江朝廷軍を数々と破り、7月22日に瀬田橋の戦いで近江朝廷軍に大勝利を収めます。

こうして翌日7月23日、近江朝廷の大友皇子は首をつって自害し壬申の乱は終わりを迎えました。

自害した場所は現在の滋賀県大津市長等山とされています。

 

壬申の乱のその後

壬申の乱の乱が終わると、勝者である大海人皇子は天武天皇2年(673)2月に現在の奈良県に飛鳥浄御原宮を建立し天武天皇となります。

天皇に即位した大海人皇子は服制の改定、八色の姓の制定、冠位制度などを行い、その後、約15年間もの間、天武天皇の専制政治が行われました。

日本で初めて「天皇」という称号を使用したのは天武天皇だとされています。

 

最後に

壬申の乱は皇位を巡った内紛でした。一説によると天智天皇が亡くなり、672年に壬申の乱が起きるまでの7カ月の間、大友皇子は短い期間でありながら天皇に即位していたのではないかという説もあります。

このような推測もあり、明治3年(1870)亡き大友皇子に弘文天皇として諡号が付けられ、天皇として認められました。

大友皇子が短い間でも天皇に即位していたということが事実であるなら、大海人皇子は天皇を自害に追いやった罪人となります。