縄文時代とは紀元前131世紀頃(約1万5,000年前)から紀元前4世紀頃(約2,300年前)までの新石器文化が発達した時期のことを指します。
世界史では中石器時代または新石器時代にあたると考えられ、旧石器時代と縄文時代の違いは土器、竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられます。
そんな縄文時代の暮らしや、縄文土器、日本に現存する代表的な遺跡を解説していきます。
旧石器時代と縄文時代の違い
旧石器時代とは人類が日本に初めて上陸した時から始まり、1万6000年前に終わったと考えられています。
旧石器時代の頃、人類は石を打ち欠いて作った石器である打製石器を使用していました。
大型哺乳動物を食料とし移動生活を行っていたとされ、その後、農耕文化が登場すると石を磨いて作った磨製石器が登場します。
この磨製石器を使用していた時代は世界史において新石器時代と呼ばれ、日本ではこの時期を縄文時代と呼んでいます。
旧石器時代と縄文時代の違いは磨製石器だけではなく、縄文土器、竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられますが、縄文時代の始まりや終わりは地域差が大きいため、明確な年代については多くの議論が残されています。
旧石器時代と縄文時代の違いとして縄文土器があげられましたが、縄文土器は時代差や地域差を識別するための基準として使用され、土器型式上の区分、縄文時代は草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられました。
縄文時代の生活
縄文時代は草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられ、また縄文前期には日本列島内に九つの文化圏が成立していたとされることから、縄文時代の暮らしは地域や年代によって様々なものとなっています。
縄文時代草創期(約1万3千年前から約1万年前)の暮らし
この時期は日本列島が大陸から離れる直前と考えられています。
温暖化が進行したため海面が上昇したと考えられます。
住居
この頃から竪穴住居があったとされています。
食事
ゾウや野牛の大型哺乳動物を捕獲対象としていましたが、環境が変化したため、これに加え貝類や魚類、また中・小哺乳動物であるシカやイノシシが対象となります。
局部磨製石斧が作られ、槍や弓矢の製作、使用も行われます。
土器
煮炊きに使用したと考えられる世界最古級の土器・豆粒文土器、小型の隆起線文系土器などが作られました。
縄文時代早期(約1万年前から6千年前)の暮らし
縄文時代草創期は日本列島は未だ大陸と繋がったままでした。
しかし、縄文早期には、大陸と日本列島は完全に離れることとなり島国となります。
貝塚が使用され、貝塚に捨てられた多くはヤマトシジミでした。
人口は2万100人いたとされています。
鬼界カルデラの噴火で西日本一帯は壊滅的な被害を受けます。
住居
旧石器時代は移動生活を主に行っていたとされますが、定住集落が登場します。
旧石器時代、人類は食料の確保や廃棄物問題、死生観上などから移動生活を行っていたとされ、それらが解決したことによって、数個の竪穴住居を一集落として構成して定住集落が開始されました。
食事
旧石器時代、大型哺乳動物を食料としていたのに対し、中・小型哺乳動物であるシカやイノシシが食料の対象と変化します。
狩猟道具として弓矢が作られ、また本格的な漁業の開始されています。
土器
圧煮炊き用の土器が作られました。
また小型の縄文土偶が作られるようになります。
縄文時代前期(約6千年前から5千年前)の暮らし
早期に比べ温暖な気温となり、海面が4~5m上昇したと考えられます。
前期の人口は10万5500人と考えられています。
住居
縄文前期は竪穴住居が広場を囲むように集落を形成します。
食事
丸木船が使用され、沿岸部には好漁場が増え、海産物が手に入るようになっていました。
土器
縄文時代前期を境に、土器の量は一気に増加します。
植物の繊維を混ぜた繊維土器、また耳飾り、勾玉、管玉といった装身具も作られるようになります。
9つの文化圏の成立
縄文時代前期、日本列島を大きく分けて9つの文化圏が成立したと考えられています。
石狩低地以東の北海道
針葉樹が優勢な地域であったとされ、トド、アザラシ、オットセイなどの海獣が豊富であり、それらを捕獲していました。
北海道西南部および東北北部
落葉樹林帯とされる地域でクルミ、クリ、トチノキといった堅果類の採集が行われていました。
その他カモシカやイノシシなどの捕獲も行っていたとされます。
東北南部
ニホンジカ、イノシシ、カツオ、マグロ、サメ、イルカを食料としました。
関東
シカとイノシシを中心とした植物性食料とハマグリ、アサリを中心とした漁労を盛んに行っていたのがこの地域の特徴で、日本列島全体の貝殻や魚の骨などのゴミ捨て場となった貝塚の約6割がこの地域にあるとされています。
北陸
シカ、イノシシ、ツキノワグマを捕獲対象としていました。
豪雪地帯であったため住居は大型化していったとされています。
東海・甲信
シカとイノシシを捕獲対象とし、ヤマノイモやユリの根なども食べていたとされています。
北陸・近畿・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後
シカとイノシシを捕獲対象とし、石を加工した網用の錘を使用し漁業を行います。
九州
シカとイノシシを捕獲対象とし、九州島と朝鮮半島の間にある多島海で漁労活動を行いました。
縄文早期末には九州南部にある鬼界カルデラが大噴火したため、ほぼ壊滅的な状況になったと考えられています。
トカラ列島以南
鹿児島県側の薩南諸島に属する島嶼群を指します。
ウミガメやジュゴンを食べ、貝殻を網漁の錘に使用したとされています。
九州と交流を持っていたと考えられています。
縄文時代中期(約5千年前から4千年前)の暮らし
縄文中期になると、前期に比べ次第に気温は下がります。
中期の人口は26万1300人と推測されています。
住居
中期になると、集落は拡大し規模は大きくなりました。
食事
海獣や哺乳類といった様々な捕獲対象に加えドングリより食べやすいクリが食べられました。
土器
中期になると呪術、祭祀に関する石棒、土偶などが作られ、抜歯の風習が始まります。
また立体的文様が描かれた大型土器なども作られました。
縄文時代後期(約4千年から3千年前)の暮らし
縄文後期に入ると塩を専門につくる製塩専業集団、塩媒介集団、塩消費集団が形成されました。
また交易を目的とした漁労民が現れます。
ストーンサークルと呼ばれる大型遺跡が東北地方を中心につくられ、人口は中期より減少した16万300人と推測されました。
土器
塩を作るための製塩土器が作られます。
また日常生活の不用品の廃棄を目的とした土器塚が村の一角に設けられました。
縄文時代晩年(約3千年から2300年前)の暮らし
後期に比べ気温が2度前後低下し海面も低下したと推測されます。
そのため漁労活動に壊滅的な打撃を与えることとなり人口は7万5800人と減少を迎えます。
稲作の始まり
縄文時代後期から晩期、日本では焼畑稲作が行われていました。
稲作の開始に伴って、稲を摘み取る際に使用された石器である穂摘み具、土を掘るために使用された打製土掘り具と見られる石器が作られたと考えられています。
縄文時代後期、日本では稲が制作されていたことは間違いありませんが、稲がけではなくオオムギ、ヒエ、キビ、アワ、アズキ、大豆なども混作されていたと考えられています。
縄文時代の服装
イノシシやシカの毛皮を服にしていたとされています。
また麻や苧麻といった植物の繊維から糸を作って編み物をしていたということが分かりました。
縄文時代から続く編み物の技法によって編まれた編み物は編布(あんぎん)と呼ばれこの編布を用いて貫頭衣(かんとうい)と呼ばれる着物を作っていたと考えられています。
縄文時代の代表される遺跡
泉福寺洞窟
長崎県佐世保市瀬戸越にある泉福寺洞窟は泉福寺洞窟遺跡とも呼ばれています。
縄文時代草創期の遺跡とされ、世界最古級の土器・豆粒文土器が発見されました。
上野原遺跡
鹿児島県霧島市国分上野原縄文の森にある上野原遺跡は、縄文時代早期から近世にかけての複合遺跡です。
日本列島で最古の大規模な定住集落跡があったとされています。
三内丸山遺跡
青森県青森市大字三内字丸山にある三内丸山遺跡は縄文時代前期中頃から中期末までの大規模集落跡です。
標高約20mの場所にあり、遺跡は約40ヘクタールと広大な規模となっています。
遺跡には竪穴住居群、高床式倉庫群の他、3層の掘立柱建物があり、2000年に国の特別史跡に指定されました。
大森貝塚
東京都品川区から大田区にまたがる大森貝塚は縄文時代後期から末期にかけての遺跡とされています。
昭和30年(1955)に3月24日に国の史跡に指定され、この遺跡から発掘された貝殻、土器、土偶、石斧、石鏃、鹿・鯨の骨片、人骨片は全ての重要文化財に指定されています。
まとめ
旧石器時代と縄文時代の違いは、石器だけではなく土器、竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられます。
縄文時代は弥生文化の特徴である水田耕作や金属の使用の登場によって終りとされていますが、地域差が大きいため正確な年代は分かっていません。