葛飾北斎とは?富嶽三十六景などの作品や龍、子孫などについて解説!

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葛飾北斎は江戸時代後期の浮世絵絵師です。

代表される作品に「富嶽三十六景」や「北斎漫画」、晩年に描かれた「富士越龍図」があげられます。

そんな葛飾北斎の生涯や、「富嶽三十六景」「富士越龍図」などの作品、子孫について解説してきます。

 

葛飾北斎の生い立ち

葛飾北斎の経歴については未だ明確に分かっていないところが多くありますが、宝暦10年(1760)9月23日に現在の東京都墨田区の一角にあたる武蔵国葛飾郡本所割下水で誕生したとされています。

姓は川村氏で、幼名は時太郎、のちに鉄蔵と呼ばれるようになりました。

よって本名は川村鉄蔵となります。

実家は百姓であったとされ貧しい生活を送っていました。

明和元年(1764)幕府御用達の鏡磨師・中島伊勢の養子になるも、家を出ると貸本屋の弟子となり木版彫刻師の従弟となった後、実家へと戻ります。

 

浮世絵師・勝川春章から絵画を学ぶ

安永7年(1778年)浮世絵師・勝川春章から狩野派の技法や唐絵、西洋画の技法を学びます。

多くの絵画技法を学んだ葛飾北斎は浮世絵風景画や、役者絵などの作品を多く描きました。

安永8年(1779)役者絵「瀬川菊之丞 正宗娘おれん」で、葛飾北斎はデビューするも寛政6年(1794)になると勝川派から、兄弟子である勝川春好と不仲であったため、また狩野派の画法を勝川春章に隠れて学んでいたため破門となります。

 

頻繁に号を変える

その後、文化2年(1805)に葛飾北斎が 「葛飾北斎」の号を用いていたことが作品に残されています。

それまで、葛飾北斎は「春朗」「北斎宗理」「宗理」「北斎」「可侯」「辰政」などの号を用いていました。

しかし、葛飾北斎はその後も、「戴斗」「為一」「画狂老人」「卍」などの号を用い、頻繁に号を変えていきます。

「北斎」というの号はもともと名乗っていた「北斎宗理」の号の略称で、日蓮宗系の北辰妙見菩薩信仰にちなんでつけたとされ、生涯、北斎は30回も改号しており、他の絵師と比べると比較的多い改号となります。

 

「北斎漫画」初編を発刊

文化11年(1814)葛飾北斎が54歳の時、スケッチ画集である「北斎漫画」を発行します。

画号は戴斗とされ、人物、風俗、動植物、妖怪変化などの約4000図が描かれ、全15編からなります。

その後、文化14年(1817)の春頃になると名古屋へ移り名古屋西掛所の境内で達磨半身像を描きました。

年末には吉野、紀州、大阪、伊勢へと旅行に行きます。

 

「富嶽三十六景」の制作を開始

文政6年(1823)富嶽三十六景の制作を開始します。

富士山の見える各地の景観を大錦横判によって描かれた風景画揃物です。

この作品の制作を始めた頃、葛飾北斎は72歳であったとされ、晩年の作品にあたります。

天保2年(1831)頃に開版され、同年4月にこの作品の制作は全46図で完結しました。

この「富嶽三十六景」の全46図のうちの1図である「凱風快晴」や「神奈川沖浪裏」は葛飾北斎の作品の中でも最も有名な作品となっています。

 

「神奈川沖浪裏」

「富嶽三十六景」の全46図のうちの1図である「神奈川沖浪裏」は主題である富士山が画面中央下部、豪快な大波が前景に描かれます。

当時、非常に人気の高かった作品で、多くの摺絵が作成されました。

そのうちの1部が1870年代後半にヨーロッパへと渡ると印象派画家のゴッホに評価され、ヨーロッパで葛飾北斎の絵画は大きな影響を与えます。

 

葛飾北斎の晩年

天保13年(1842)儒学者である高井鴻山に会いに行くため信濃国高井郡小布施へ向かいます。

その2年後、天保15年(1844)信濃国高井郡小布施を旅すると嘉永元年(1848)頃まで、高井郡小布施に滞在し、この時「怒涛図」を描きました。

嘉永2年(1849)4月18日江戸へ戻った葛飾北斎は江戸・浅草聖天町にある遍照院の境内で90歳で亡くなります。

葛飾北斎の最期の作品は「富士越龍図」で葛飾北斎が亡くなる約3か月前に描かれたものとされています。

 

葛飾北斎の子孫

葛飾北斎は2度、結婚していました。

先妻との間に一男二女、後妻との間にも一男二女を授かり、計6人の子供に恵まれます。

 

先妻との間にできた長女・お美与

北斎の門戸の1人である浮世絵師・柳川重信の妻となります。

長女・お美与は男子を生みますが、柳川重信とは離婚し、父・葛飾北斎の下で亡くなります。

残されたお美与の子供のその後の行方は判明されていません。

 

先妻との間にできた長男・富之助

中島伊勢の家督を継ぐも早死にします。

 

先妻との間にできた次女・お辰

画才はあったものの病気で亡くなります。

 

後妻との間にできた次男・多吉朗崎十郎

江戸幕府の支配勘定を務め、加瀬氏の養子となります。

 

後妻との間にできた三女・お栄

絵師・南沢等明と1度は結婚したものの離婚した後、父の葛飾北斎の助手となり、「応為」という号を用いて浮世絵師として活躍します。

代表作として「吉原格子先之図」があげられます。

 

後妻との間にできた四女・お猶

詳しい事は分かっていませんが、早死にしたとされています。

 

現代に続く子孫

長女のお美与は男子を授かるも、離婚後の男子の行方は不明とされ、長男・富之助、次女・お辰は早死にしています。

三女・お栄も1度、南沢等明したものの離婚し、その後再婚しなかったため子供を授かることはありませんでした。

次男・多吉朗崎十郎は御家人の加瀬家に養子に入ったのち、多知と呼ばれる女子が誕生しました。

この知多は臼井家に嫁ぐと、2人の男子を授かり、このうちの次男は加瀬家の養子となり家督を継ぎます。

四女・お猶は早死にしたため、子供を授かることはありませんでした。

このことから、現代に続く葛飾北斎の子孫は、後妻との間に誕生した次男・多吉朗崎十郎の娘・知多が嫁いだ臼井家、また知多の息子が後を継いだ加藤家の系統とされます。

 

最後に

葛飾北斎は日本を代表する浮世絵師です。

葛飾北斎の描いた「神奈川沖浪裏」はヨーロッパに渡ると、画家のゴッホから評価され、ヨーロッパの絵画絵師たちに大きな影響を与え、印象派誕生のきっかけとなりました。