岸信介とは?CIAやA級戦犯、安倍晋三首相との関係や家系図を解説!

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岸信介は第56・57代内閣総理大臣を務めた人物です。

第二次世界大戦後には、GHQによってA級戦犯被疑者として逮捕されました。

しかし、極東国際軍事裁判において不起訴のまま無罪放免となります。

そんな岸信介の生涯やCIAやA級戦犯、安倍晋三首相との関係性や家系図を解説していきます。

岸信介の生い立ち

岸信介は明治29年(1896)、現在の山口市である山口県吉敷郡山口町八軒家の山口県庁官吏・佐藤秀助と茂世の次男(第5子)として誕生しました。

岡山中学校に進学した岸信介は学費や生活費などを面倒見ていた叔父・佐藤松介が肺炎のため亡くなったため、山口県に戻り、山口中学校に転校します。

中学3年生になると、父の実家である岸家の養子となりました。

その後、中学を通して卒業した岸信介は第一高等学校に進学し、大正6年(1917)東京帝国大学法学部に入学します。

この頃、岸信介は国家社会主義者・北一輝と思想家・大川周明の思想に魅了されていたとされています。

 

農商務省に入省

東京帝国大学法学部を卒業すると農商務省に入省します。

この時、同期には平岡梓(三島由紀夫の父)、三浦一雄、吉田清二、先輩に、伊藤文吉(首相伊藤博文の養子)がいました。

大正14年(1925)農商務省が商工省と農林省に分けられると、岸信介は商工省に配属となります。

その後、昭和8年(1933)2月に商工大臣官房文書課長、昭和10年(1935)4月に商工省工務局長に就任となりました。

昭和11年(1936)10月に満州国国務院実業部総務司長に就任すると昭和12年(1937)7月には産業部次長、昭和14年(1939)3月に総務庁次長に就任となりました。

こうして昇進を続けた岸信介は、この間、満州国における経済発展計画の「産業開発5ヶ年計画」を実施します。

満州国の経済発展計画は、経済財政政策を統轄した星野直樹らとともに行われました。

満州に渡っていた岸信介は昭和14年(1939)10月に帰国すると商工次官に就任するも、左翼活動の嫌疑により治安維持法違反として検挙・起訴された企画院事件の責任者として辞職となります。

 

入閣

昭和16年(1941)になると10月に発足した東條内閣に商工大臣として入閣をはたします。

この際、岸信介は太平洋戦争中の物資動員の全ての管理を行いました。

昭和17年(1942)の第21回衆議院議員総選挙で当選すると、昭和18年(1943)に商工経済会設置法を成立させます。

しかし、戦時体制下における軍需産業強化を行うため商工省は廃止され軍需省と改組となりました。

この時、岸信介は軍需次官に就任となります。

 

東條英機との対立

昭和19年(1944)7月9日、サイパン島でアメリカ軍と戦っていた日本軍でしたが、敗色濃厚となります。

この時、重臣間では早期和平を望んだ木戸幸一、岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らが中心となって東條内閣の倒閣工作が行われていました。

これに対し、東條英機は内閣改造を意向を示しすと、木戸幸一は自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解き、嶋田繁太郎海軍大臣の更迭、重臣の入閣を要求します。

この要求を、東條英機は受け入れ内閣改造を行いました。

この内閣改造において講和を提言していた岸信介は、以前から東條英機と対立していたため軍需次官の辞任の要求がなされました。

これに対し、岸信介は東條英機に閣僚辞任を拒否し内閣総辞職を要求します。

内閣総辞職を要求された東條英機は側近・四方諒二東京憲兵隊長を岸信介の自宅に向かわせ、恐喝させるも岸信介は「黙れ、兵隊」と一括し、四方諒二東京憲兵隊長を追い返しました。

その後、内閣改造を断念した東條英機は7月18日に内閣総辞職となりました。

岸信介は昭和20年(1945)3月11日、反東條英機派となる護国同志会を結成します。

A級戦犯として逮捕される

昭和20年(1945)日本第二次世界大戦が終結すると、山口県にいた岸信介は連合国軍からA級戦犯被疑者として逮捕されます。

戦争犯罪で逮捕されたのは岸信介だけではなく、東條英機、東郷茂徳、嶋田繁太郎など主に東條内閣閣僚が逮捕され東京の巣鴨拘置所に拘置されました。

逮捕された中には自殺する者がいましたが、岸信介は「われわれは戦争に負けたことに対して日本国民と天皇陛下に責任はあっても、アメリカに対しては責任はない。しかし勝者が敗者を罰するのだし、どんな法律のもとにわれわれを罰するか、負けたからには仕方がない。」と述べています。

獄中では、新日本は海国として再出発すべきであると『断想録』に記しました。

連合国によって行われた戦争犯罪人を裁いた極東国際軍事裁判において、岸信介は開戦を実質的に決定した昭和16年(1941)11月29日に行われた大本営政府連絡会議の共同謀議に参加していなかった、東条英機首相に即時停戦講和を要求し、東条英機首相の側近から恐喝を受けるも、東条内閣の倒閣に貢献した、また元米国駐日大使ジョセフ・グルーらから信頼を得ていたことから、昭和23年(1948)12月24日、不起訴のまま無罪放免となりました。

岸信介は出所すると、翌日、友人である藤山愛一郎から藤山愛一郎の経営する日東化学の監査役を依頼されます。

翌年になると自身の事務所「箕山社」を銀座に構えました。

公職追放処分中であった岸信介は、事務所を構えるだけではなく、東洋パルプの会長などを務めます。

その後、昭和27年(1952)4月28日、サンフランシスコ条約を機に、公職追放は解かれることとなりました。

 

政治活動の再開

公職追放を解かれた岸信介は「自主憲法制定」「自主軍備確立」「自主外交展開」のスローガンを掲げた日本再建連盟を設立します。

昭和28年(1953)日本再建連盟は選挙で大敗したため自由党に入党し公認候補として衆議院選挙に当選します。

しかし、吉田茂の「軽武装、対米協調」路線に反発したため、昭和29年(1954)自由党を除名となりました。

その後、同年11月に鳩山一郎とともに日本民主党を設立します。

昭和30年(1955)10月、自由民主党を結成しました。

この結成は、かねてから左右両派に分裂していた日本社会党が再び合同したため、それに対抗してのことでした。

 

内閣総理大臣に就任

昭和31年(1956)12月14日、岸信介は外務大臣として石橋内閣に入閣します。

2か月後に石橋湛山が倒れると、岸信介は首相臨時代理を務めました。

その後、石橋湛山に後継首班に指名されると、昭和32年(1957)2月25日、第56代内閣総理大臣に就任となります。

同年4月には、イギリスに松下正寿特使を派遣し、核実験禁止をアピール、5月23日にインドのネール首相と核実験禁止問題を討議などを行いました。

9月、外務省は外交三原則である「国連中心主義」「アジアの一員としての立場の堅持」「自由主義諸国との協調」を掲げ、10月になると岸信介は国連安保理非常任理事国に当選します。

岸信介はアジア重視の外交を行いました。

 

第2次岸内閣の発足

昭和33年(1958)4月25日に衆議院が解散となると、5月22日の総選挙で勝利、第57代内閣総理大臣に就任し、第2次岸内閣が発足しました。

この時、前首相の石橋湛山が閣議決定していた国民皆保険を確立、また社会保障制度の導入、鳩山一郎とともに憲法改正を主張を行います。

昭和35年(1960)1月、全権団を率いて訪米した岸信介はアイゼンハワー大統領と会談し新安保条約の調印を約束しました。

この新安保条約は実質的には安保条約の改定とされていますが、安保廃棄を掲げる社会党が新条約の承認をめぐる国会審議で抵抗したため、日本社会党議員を国会会議場に入れず強行採決を行います。

安保条約に反対するのは国会議員のみならず、労働者、学生、市民までも反対しており安保闘争は激化となりました。

この安保闘争において多くの重傷者や死人まで出たため、この混乱の責任を取る形で、岸信介は辞職を表明しました。

 

岸信介の最期

同年7月14日、後継首班に池田勇人を指名した直後、岸信介は戦前、右翼団体大化会に属していた荒牧退助に刺されて重傷を負い、翌日の15日に総辞職をしました。

昭和38年(1963)の第30回衆議院議員総選挙において長女・洋子の娘婿の安倍晋太郎(安倍晋三首相の父)が山口1区で落選します。

しかし、岸信介は自民党議員・周東英雄の後援会長であった藤本万次郎に直々に、安倍後援会会長への就任を要請すると、昭和42年(1967)安倍晋太郎は第31回衆議院議員総選挙において当選となりました。

昭和44年(1969)の第32回衆議院議員総選挙で、岸信介は側近・今松治郎の秘書・森喜朗が無所属で出馬すると応援に足を運び、そのかいもあってか森喜朗は初当選となりました。

その後、昭和49年(1974)協和協会を設立、昭和51年(1976)10月に政治団体「時代を刷新する会」を設立します。

昭和54年(1979)衆議院解散を機に政界を引退すると昭和62年(1987) 8月7日、90歳で亡くなりました。

CIAから資金提供を受ける

CIAとはアメリカ合衆国の情報機関である中央情報局の略称です。

CIAは日本占領期、占領期後に渡って、岸信介、賀屋興宣、正力松太郎、児玉誉士夫などを、CIAの協力者とし自由民主党に活動資金を提供していたとされています。

資金の提供を受けたのは岸信介と、自民党有力者と社会党右派(後の民社党)とされていますが、資金の提供を受けた結果、社会党右派が民社党を設立することとなり、日本社会党は弱体化となりました。

 

安倍晋三首相との関係

安倍晋三首相からすると、岸信介は祖父にあたります。

岸信介の娘婿・安倍晋太郎(安倍晋三首相の父)もまた衆議院議員で、岸信介と同様に東条英機に対し批判を繰り返していました。

 

子孫、家系図

佐藤家で誕生し、岸家に養子に入った岸信介は兄と弟を持ち、また妻・良子との間には2人の子供が誕生しています。

岸信介の家系図を見ると、政治家や内閣総理大臣となった者がいるためエリートが集まる家系であったことがわかります。

 

岸信介の兄・佐藤市郎

海軍軍人、歴史家でした。

政治との関わりは薄く海軍で軍令畑を長く務めると、中将で退役しました。

 

岸信介の弟・佐藤栄作

第61-63代 内閣総理大臣を務めた人物です。

 

岸信介の長男・信和

岸信介が内閣総理大臣であった頃、一時期に内閣総理大臣秘書官を務めていました。

妻・仲子は山口県議会議長を務めた田辺護の二女です。

 

岸信介の長女・洋子

政治家安倍晋太郎に嫁ぎました。

安倍寛信、安倍晋三、岸信夫が誕生します。

 

岸信介の孫・安倍寛信

現在、三菱商事パッケージング社長を務めている人物です。

 

岸信介の孫・安倍晋三

現在、第97代首相を務めている人物です。

 

岸信介の孫・岸信夫

岸信和の養子となり、岸家を継ぎました。

長男にフジテレビ報道局記者の岸信千世がいます。

 

最後に

A級戦犯であった岸信介は不起訴、釈放されると、その後CIAから資金を援助されていました。

2007年には米国務省が、岸信介、社会党右派、自民党有力者に資金を提供し、日本政界に対し内政干渉をしていたことを認めました。