楠木正成とは?名言や皇居にある正成像、歌・桜井の別れなどについて解説!

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楠木正成とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将です。

幕府打倒に貢献し、建武の新政では立役者として足利尊氏らとともに活躍しました。

そんな楠木正成の生涯、名言、皇居内にある正成像、歌、また子・楠木正行と訣別する逸話「桜井の別れ」について解説していきます。

楠木正成の生い立ち

楠木正成の出身地や誕生年などは未だ不明とされ明確には明かされておらず、母は橘遠保の末裔橘盛仲の娘、父は河内国の土豪・楠木正遠ではないかと推測されています。

楠木正遠の他にも父親は悪党的な荘官武士に位置づけられていた河内楠一族出身の人物や、駿河国出身の人物ではないかと推測されることがあります。

 

悪党とされる

元亨2年(1322)楠木正成は得宗・北条高時の命により摂津国の要衝淀川河口に居する渡辺党を討ち、紀伊国安田庄司湯浅氏を殺害し、南大和の越智氏を撃滅したと記録されています。

当時、反逆武装民とされていた渡辺党、湯浅氏、越智氏を討った楠木正成は鎌倉幕府に忠実な番犬として畿内に睨みを利かせていました。

楠木正成の討伐には鎌倉幕府は感嘆の声をあげましたが、当時、幕府では畿内の悪党が幕府に対して反逆や合戦を繰り返していたため、悪党として名の高い楠木正成が幕府に対して反逆するのではないかと不安視されていました。

 

幕府倒幕計画

その後、楠木正成は後醍醐天皇による鎌倉幕府の倒幕計画に参加します。

元徳3年(1331)に鎌倉幕府の倒幕計画が幕府側に知られると、後醍醐天皇は笠置山に逃げ、その地で挙兵しました。

この元弘の乱の際、楠木正成は笠置山に参向したとされています。

その後、楠木正成は河内に戻り赤坂城で挙兵します。

 

赤坂城の戦い

笠置山の戦いで敗北した後醍醐天皇らは捕えられましたが、楠木正成は赤坂城にて幕府軍との戦いに挑みます。

はじめ、幕府軍は赤坂城を1日で落城することができると見込んでいましたが、楠木軍はその攻撃に耐え、幕府軍の城攻めは手詰まりに陥りました。

しかし、赤坂城は急造の城であったため長期戦の戦いには不向きでした。そのため楠木正成は自ら赤坂城に火を付け、幕府軍に城を与えます。

その後、赤坂城には湯浅宗藤が幕府によって楠木正成の旧領である領地が与えられました。

赤坂城の戦いに敗れた後、楠木正成はしばらく行方をくらませたとされます。

 

赤坂城の奪還

元弘2年(1332)楠木正成は赤坂城の奪還に向け湯浅宗藤を襲撃します。

この戦では楠木正成の戦略から湯浅宗藤と一戦を交えることなく勝利し、赤坂城の奪還に成功しました。

 

河内、和泉を政略

その後、楠木正成は河内や和泉の守護を次々攻略し、摂津の天王寺を占拠します。

これに対し幕府は宇都宮高綱に楠木正成討伐を命じました。

楠木軍は幕府軍のおよそ4倍の軍勢であったため、家臣の和田孫三郎は楠木正成に進軍することを助言します。

しかし、楠木正成は宇都宮高綱は坂東一の弓取りであること、また紀清両党の強さを恐れ「良将戦わずして勝つ」と提案し、進軍することを拒否しました。

これを機に幕府軍は天王寺を占拠するも、楠木正成は天王寺を三日三晩かがり火で包囲させ、宇都宮高綱にいつ攻めてくるのか分からないような不安な状態と陥らせました。

これによって4日後、宇都宮高綱がついに兵を京へ引くと、翌朝には正成が天王寺に入れ替わる形で奪還することに成功しました。

 

幕府による楠木正成の討伐

幕府では、畿内で反幕府勢力が台頭していることを知ると、東国から討伐軍の派遣を行います。

これに対して楠木正成は奪還した赤坂城を河内国の詰め城として、千早城をその背後の山上に築き、千早城、上赤坂城、下赤坂城の3城で幕府に立ち向かうこととなりました。

元弘3年(1333)の2月以降、千早城で幕府の大軍と対峙し幕府の大軍を相手に一歩も引かず奮戦した千早城の戦いが行われます。

この間、流罪となっていた後醍醐天皇は隠岐の島から脱出しました。

この千早城の戦いや吉野などで幕府と戦った護良親王の活躍などにより、触発された各地の反幕勢力の多くが挙兵します。

元弘3年(1333)5月には、足利高氏が京の六波羅を攻め落とし、京の幕府勢力は消滅となりました。

この六波羅の陥落によって千早城を包囲していた兵は撤退し、楠木軍の勝利に終わります、新田義正によって鎌倉幕府は滅ぼされます。

後醍醐天皇の建武の新政

後醍醐天皇の建武の新政が始まると楠木正成は様々な役職を与えられ、後醍醐天皇の絶大な信任を受けます。

しかし、後醍醐天皇の行う建武の新政は諸国の武士の反感から失敗に終わり、また足利高氏は鎌倉で新政に離反します。

その後、後醍醐天皇は離反した足利高氏の討伐を楠木正成、新田義貞に命じました。

 

足利高氏の討伐

京都での後醍醐天皇の軍勢との戦いに敗れて九州へ落ち延びた足利高氏はその地で勢力を盛り返し、再び京都を目指して進撃してきました。

京都を目指す足利高氏が再び京都へ迫ると、後醍醐天皇は再び楠木正成と新田義正に迎え撃つよう命じます。

この際楠木正成は、京都にて足利高氏を討伐する計画を立てますが、後醍醐天皇の側近によりこの計画は反対され、足利高氏のいる兵庫で戦が行われることとなりました。

 

桜井の別れ

足利高氏の討伐に向けて兵庫へ向かう際、楠木正成は息子の楠木正行に対し「今生にて汝の顔を見るのも今日が最後かと思う」と述べ桜井の宿から河内へ帰したとされます。

息子・楠木正行は当時11歳だったとされ最期まで父・楠木正成と戦いたいと懇願したものの楠木正成は後醍醐天皇から賜った菊水の紋の入った短刀を渡し、河内へ返したと逸話が残されました。

この逸話は「桜井の別れ」と言われ「太平記」にあらましが記述されています。

 

「桜井の訣別」は父・楠木正成と子・楠木正行の別れを歌った唱歌です。

「桜井の訣別」の他に、「青葉茂れる桜井の」「大楠公の歌」と呼ばれることもあり、楠木正成と子・楠木正行の桜井の別れから湊川の合戦までが歌われました。

 

湊川の戦いと楠木正成の最期

足利高氏の討伐のため兵庫に到着した楠木正成は新田義貞の軍と合流します。

湊川の戦いでは、楠木、新田の連合軍は引き離され、6時間にも及ぶ合戦の末、楠木軍は次第に軍を減らし追い詰められました。

追い詰められた楠木軍は湊川の東にある村の民家に逃げ込むと、楠木正成はそこで鎧を脱ぎ捨て、一族とともに自害しました。

このとき楠木正成は42歳であったとされています。

皇居に建てられた楠木正成像

現在、皇居のある江戸城跡地には、楠木正成の銅像が建てられてあります。

この、銅像は元弘3年(1333)に隠岐の島から救い出された後醍醐天皇を迎えた時の楠木正成をモデルとして作られました。

ではなぜそんな楠木正成の勇姿をモデルにした銅像が皇居に建てられることとなったのでしょうか。

これまで楠木正成は、後醍醐天皇の行った倒幕計画から建武の新政、圧倒的な強さを誇る足利軍に挑んだ湊川の戦いなど後醍醐天皇に忠誠を誓い続けた姿勢が見られました。

このように、南北朝時代にはほとんどの東国の武士が圧倒的強さを持つ足利尊氏に加担していく中、楠木正成は後醍醐天皇に最後まで忠誠を誓った忠臣として、皇居に銅像が建てられたとされます。

 

楠木正成の名言

後醍醐天皇に忠誠を誓い続けた楠木正成は多くの名言とされる言葉を残しました。

そのうちのいくつかを紹介します。

 

名言①

名言①
足ることを知って、及ばぬことを思うな。
意味
足りない部分より足りている部分に目を向けなさい。

 

名言②

名言②
合戦の勝負、必ずしも大勢小勢に依らず、ただ士卒の志を一つにするとせざるとなり。
意味
戦いの勝ち負けは必ずしも、兵の数ではなく兵の心を一つにすることで決まる。

 

名言③

名言珊
大将は大なる知恵も細なる知恵もなくてはかなわぬものなり。知恵は生まれつきにありというも、その知恵を磨かざれば正智いずることなし。知恵に自慢おごりて、磨かざる大将はみな代々持ち来る国を失い、家をなくすものなり。
意味
大将は、知恵を自慢するのではなく、知恵を磨き続けなければならない。

 

さいごに

楠木正成は、後醍醐天皇に忠誠を誓い続けた人物でした。

楠木正成の名誉は、足利高氏が征夷大将軍を務めた室町時代においては非常に貶められましたが、天皇中心の政治が行われる明治時代になると、楠木正成や新田義貞は天皇に忠誠を誓い戦った人物として高い評価を得ることとなり、皇居に楠木正成像が建てられることとなりました。

また楠木正成の忠誠を誓い続けた姿勢から「太平記」に残される言葉は今では名言として扱われています。