万葉集とは奈良時代末期に編纂したとされる日本最古の和歌集です。
万葉集には4500首以上の和歌が収録されていますが、その作者たちは天皇や貴族、下級官人などで、幅広い身分の作者の歌が収録されました。
恋の歌を集めた相聞歌、死者を哀悼する挽歌、相聞歌と挽歌に属さない雑歌などに分類されています。
そんな万葉集について、制作された時代、作者、また歌の現代語訳を含め解説していきます。
万葉集とは
万葉集とは天平3年(759)以降に成立したとされる和歌集です。
現存する和歌集の中では日本最古とされており国宝に指定されました。
4500首以上の歌は様々な身分の人間によって詠まれ、中には方言で詠まれた歌もあり、その作者の出身地なども書かれていることから、万葉集は方言学を研究するにあたり重要な史料となっています。
編者
万葉集の編者は大伴家持や橘諸兄、勅撰説などもあり明確に編者は分かっていませんが、一般的には大伴家持が万葉集の編者となります。
万葉集は大伴家持だけで、まとめられたのではなく巻によって編者が異なり、最終的に大伴家持が20巻にまとめたとされています。
巻1の前半部分
持統天皇や柿本人麻呂が編集に関わったとされています。
巻1の後半から巻2
元明天皇や太安万侶が編集に関わったとされています。
巻3から巻15、巻16の一部
元正天皇、市原王、大伴家持、大伴坂上郎女らが編集に関わったとされています。
巻16以降から巻20まで
大伴家持によってまとめられ完成したとされています。
時代
奈良時代にあたる延暦2年(783)頃に大伴家持によって全20巻がまとめられましたが、編者の大伴家持亡き後、大伴継人らによる藤原種継暗殺事件があったため、すぐに公の場に出ることはありませんでした。
万葉集は平安中期より前の文献には見られず、公にでるようになったのは、平安中期頃とされています。
作者
万葉集の中に収録されている和歌は天皇、貴族、下級官人また作者不明とされた和歌は畿内の下級官人や庶民の歌と考えられており、東国各地の歌を歌った東歌や防人歌なども収録されているため、様々な身分の人によって詠まれた和歌が集められました。
構成
万葉集は巻ごとに年代順、部類別、国別などに配列され、恋の和歌を集めた相聞歌、死者を弔うために詠まれた挽歌、この2つに属さない自然を詠んだ歌や宮廷に関する和歌などが集められた雑歌、この3つに分類されました。
しかし、14巻だけは東国各地の和歌を集めた東歌が収録されています。
方言
万葉集の中にある巻14の東歌と巻20の防人歌には方言で詠まれた多くの和歌が収録されています。
このことから、方言学の研究にたいし万葉集は貴重な史料となりました。
「草枕 旅の丸寝の 紐絶えば 我が手と付けろ これの針持し」
この「付けろ」と「持し」は東国方言とされています。
現代語訳
相聞歌、挽歌、雑歌を少しご紹介いたします。
恋の歌を詠った相聞歌
この和歌は額田王が詠んだ和歌とされ、紫草の生えるこの御領所で、あなたが私に袖を振ってくれていますが、天智天皇の野守に見られてしまいますよ。といった意味がこめられました。
この和歌の君とは、後の天武天皇となる大海人の皇子をさしています。
額田王は大海人の皇子と夫婦関係であり、子供も授かっていました。
しかし額田王は天智天皇に気に入られ天智天皇の妻となります。
この歌の返歌として大海人の皇子は
と、紫の花のように美しい香りのする額田王を天智天皇の人妻となったとしても、まだ愛しているよ。といった意味の和歌が返されます。
このように万葉集に収録されている和歌から当時の人間関係などが分かり、民俗学の研究として万葉集は重要な史料として扱われています。
死者を弔うために詠まれた挽歌
死んだ妻と昔、手をつなぎながら遊んだことのある磯を見ると悲しくなる。といった意味が込められています。
妻が植えた梅の木を見るたびに悲しくて涙が止まらないといった意味が込められました。
相聞歌、挽歌に属さない雑歌
秋風が吹いて山吹の瀬が音立てるときに天雲を翔けていく雁に出会った。という意味が込められました。
雲の間で雁が鳴くときは秋の山の紅葉をひたすら待っているのです、季節は過ぎても。という意味が込められています。
最後に
万葉集は日本最古の和歌集で、天皇から庶民までの4500首以上の和歌が収録されました。
多くの和歌から当時の貴族や庶民の生活、宮廷内での人間関係なども分かるため民俗学としての研究における史料として、また方言などの使用された和歌も収録されているため方言学の重要な史料として扱われています。