マリア・ライヘとは?ナスカの地上絵に生涯をかけた数学者の人生を解説!

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「ナスカの地上絵」といえば、ほとんどの人が知っているほど有名な世界遺産ですね。しかしこのナスカの地上絵、実は過去に存続の危機に陥ったことがありまして、ある一人の人物がいなければ今はもう消え去っていたかもしれないのです。

その人物とは、ドイツの数学者・考古学者であるマリア・ライヘ

本日5月15日はそのマリア・ライヘの生誕115周年ということで、彼女の人生について紹介していこうと思います。

マリア・ライヘの生い立ち

1903年5月15日、マリア・ライヘはドイツのドレスデンに生まれます。

そして、ドレスデン工科大学では数学、地理学、物理学を学び、研究者としての道を歩み始めました。

 

ドイツから逃れてペルーへ

1932年、ライへが29歳のときに、ドイツを離れてペルーへ渡ります。

当時のドイツはヒトラー率いるナチスの力が台頭してきており、ライヘがドイツを離れた翌年の1933年には、ヒトラーがドイツ国首相に任命されました。

ライへはこの頃の情勢について、以下のように述べています。

私はどうしても、ドイツを出たいと思っていたの。政治的に、とても難しい時代を迎えていたわ。なかなか仕事は見つからないし、何よりナチスが、恐ろしい勢いで力を伸ばしていた。

かくして、ライヘは自身の運命を決定づけた「ナスカの地上絵」があるペルーへ到着し、クスコという場所にあるドイツ領事の子供たちのナニー(乳母)兼家庭教師として働き始めました。

1934年にライへは壊疽で指の1本を失ってしまいますが、同年、リマで学校教師となります。また、科学文献の翻訳も務め、研究者として培った能力を活かし始めました。

1939年には第二次世界大戦が勃発しましたが、この頃、ライへはもうドイツに帰国しない覚悟を決めたと言います。

ナスカの地上絵が発見され、自分の使命を自覚

ライヘが学校教師として教壇に立ったころから、ペルーの砂漠の平原に奇妙な模様のようなものが見えると、飛行機のパイロットの間で噂になります。

ライへはナスカの地上絵の発見者であるアメリカの歴史学者、ポール・コソックの助手となり、コソックから、「ナスカのラインは当初考えられていた灌漑用水路とは関係なく、天文学的な意味を持っているのではないか」というアイディアを聞きます。

それは、私の運命でした。私はそのために生まれてきたのだと、直感したのです。

ライへはこの事実に感激し、その謎を解き明かすために自分の人生をナスカの地上絵に捧げることを決意しました。1940年の出来事です。

 

活動資金を自分で捻出し、研究を続ける

ライへは1946年頃からペルー空軍などの協力を得て写真調査などを行い、ナスカの地上絵がある地域一体の地図を作成しました。

コソックが1948年にペルーを離れてからもその研究を引き継ぎ、1949年に『砂漠の謎』という著書を自費出版します。

実は当時、ナスカの地上絵が世界から注目を浴びはじめ、ライヘの名が知られるようになってきてはいたものの、活動資金はごく僅かでした。

そのため、資金が尽きるとまたリマへ戻って教師や翻訳などの仕事をして自分で資金を貯め、研究のためにまた砂漠へ戻るということを繰り返していたのです。

まさに、ナスカの地上絵の謎を解くという自分の使命に情熱を燃やしていたのですね。

 

サルの地上絵の大発見

1952年、ライへに一つの転機が訪れます。研究を続けていた彼女の前に、サルの地上絵が出現したのです。

これはナスカでも非常に重要な意味を持つ地上絵の発見だそうで、あまりの幸福に体ごと飛び上がってしまったとライへは後に回想しています。

そのサルの地上絵の発見をきっかけに、ライヘは「ナスカの地上絵は天上の星座をそのまま写し取ったものではないか」という着想を得ます。

ハチドリ、サル、トカゲ、コンドルなど、なぜ動物の巨大な地上絵が描かれたかということに関しては諸説がありますが、このライへの「天文図説」が最も有力な仮説として、現在では認められています。

他の諸説としては、当時の公共事業として地上絵を作ったという説や、雨乞いの儀式として作ったという説、また能力を測るための成人試験として使われたという説などがあります。

観光客からの侵食から守った

ナスカの地上絵は、実は何度も存亡の危機に立たされたことがあります。

地上絵の一帯はパンアメリカンハイウェイから近かったということもあり、道路による侵食を受けたりしました。

また、地帯一帯を開発するという計画も上がったり、観光客も多くなってきたことによる侵食を受けたりと、様々な苦労があったそうです。

しかし、ライへは地上絵を守るよう提言をして政府を説得したり、観光客が地上絵を見やすいように塔を建設するなど、自分の資金を保護活動に充てることにより、ナスカの地上絵を守ったのです。

ナスカに情熱を注ぐライヘの敬愛を込めて、彼女はいつしか「マドレ・デ・パンパ」(大平原の母)と呼ぶれるようになりました。

 

ついに世界遺産に

ライへの活動が認められ、1993年には功労十字勲章が授与されます。また、翌年1994年、ライヘはペルー市民となりました。

そして、さらに続く1995年、ナスカの地上絵はついに世界遺産に登録されるまでになったのです。

ライへがいなければ、ナスカの地上絵は今は消え去っていたかもしれないことを考えると、彼女の功績は多大なものだったと言えるでしょう。

 

ライへの最期

晩年、ライへは皮膚疾患や視力の減退、手の震えや運動障害を起こすパーキンソン病に苦しみ、車椅子での生活を余儀なくされました。

1998年6月8日、リマの空軍病院で卵巣がんにより95歳で死去。

ライヘの遺体はナスカの近くに栄誉葬として埋葬され、彼女の生前の住居は今では博物館になっています。