松尾芭蕉とは?俳句や奥の細道などの代表作、旅や服部半蔵との関係について解説!

松尾芭蕉とは江戸から奥州、北陸道を巡った旅行記「奥の細道」を代表作とする俳人です。

松尾芭蕉はこれまでに多くの俳句を残し、多くの俳人に影響を与えました。

そんな松尾芭蕉の生涯、旅行記「奥の細道」、また忍者服部半蔵との関係性について解説していきます。

松尾芭蕉の生い立ち

松尾芭蕉の明確な誕生年は分かっていませんが、伊賀国(三重県)で誕生しました。

実名は松尾忠右衛門宗房とし、松尾芭蕉という名前は後に俳号として改めた名前にあたります。

松尾家は平氏の末流を名乗る一族でしたが、武士ではなく農民の身分でありました。

 

料理人又は厨房役として仕える

明暦2年(1656)松尾芭蕉が13歳の時に父・松尾与左衛門が亡くなります。

長男が家督を継ぎますが、生活は苦しく、松尾芭蕉は寛文2年(1662)に伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠の料理人又は厨房役として仕えることとなりました。

 

俳句の才能を開花させる

松尾芭蕉は主計良忠に仕えながらも俳句をたしなんでいました。

19歳の立春の日に詠んだとされる「春や来し年や行けん小晦日」は松尾芭蕉が詠んだ句の中では最も古い俳句とされます。

寛文4年(1664)には松江重頼撰「佐夜中山集」に自信の俳句2句が実名である松尾宗房の名前で入集されました。

寛文6年(1666)に主計良忠が亡くなると仕官を退いたとされます。

その後も寛文7年(1667)刊の「続山井」、寛永9年(1669)刊の「如意宝珠」、寛永10年(1670)刊の「大和巡礼」に入選するなど、俳句の才能を開花していきます。

寛文12年(1672)松尾芭蕉29歳の頃には上野天満宮に自身の処女作「貝おほひ」を奉納したのち延宝3年(1675)初頭に江戸へ向かいました。

 

江戸での松尾芭蕉

江戸に向かった松尾芭蕉は多くの俳人と交流を持ちます。この頃から松尾桃青と俳号を名乗ったようです。

延宝6年(1678)には宗匠となって文机を持ち、職業的な俳諧師となりました。延宝8年(1680)松尾芭蕉は住居地を深川に移します。

それまでは日本橋の小沢卜尺の貸家、日本橋小田原町に住んでいたなど諸説ありましたが、世間に背を向けて老荘思想のように自然の中で安らぎを得るため深川に住居を移しました。

 

松尾芭蕉の旅

貞享元年(1684)8月から貞享2年(1685)4月にかけて松尾芭蕉は伊賀、大和、吉野、山城、美濃、尾張を周ります。この旅の記録を「野ざらし紀行」に記しました。

貞享3年(1686)に旅から戻った松尾芭蕉は芭蕉庵で催した発句会で「古池や蛙飛びこむ水の音」を詠みました。この句は今では松尾芭蕉の代表的な俳句の1つとして有名です。

その後、松尾芭蕉は伊勢に向かう旅に出て「笈の小文」また、京都から江戸に向かう復路の旅を記録した「更科紀行」などの紀行文を残してきました。

「奥の細道」の旅

元禄2年(1689)の3月27日、松尾芭蕉は弟子の河合曾良と共に下野、陸奥、出羽、越後、加賀、越前などを周る旅に出かけます。この旅の記録を記されたものが松尾芭蕉の代表作「奥の細道」です。

この旅では約2,400㎞を歩き、期間にして5か月ほどの長旅であったとされています。

旅の途中、訪れた名所の美しい風景や日本の侘び寂びを詠み込んだ俳句が「奥の細道」に収録されました。

 

松島での俳句

日本三景の1つに数えられる松島に訪れた際、松尾芭蕉はその美しさのあまり俳句が詠めなかったとされています。そのため弟子の河合曾良の詠んだ「松島や鶴に身をかれ ほととぎす」が収録されました。

 

平泉での俳句

平安時代末期、奥州藤原氏が栄えた時代の遺跡や寺院が残る平泉に訪れた際、藤原三代の栄華をしのび、松尾芭蕉は「夏草や兵どもが夢のあと」と詠んだとされています。

 

松尾芭蕉の最期

元禄2年(1689)8月に「奥の細道」の旅を終えた松尾芭蕉は向井去来と野沢凡兆が編集した「猿蓑」の監修などに取り組みます。

元禄7年(1694)10月、反目し合う大坂の門人、之道と酒堂の仲を取り持つことを目的とし大阪を目指しました。

松尾芭蕉はその道中、発熱や頭痛といった症状に悩まされることとなり、その後容態は悪化し元禄7年(1694)10月12日、松尾芭蕉は息を引き取ります。

「病中吟」と称して詠んだ「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」は松尾芭蕉の最後の俳句として記録されました。

松尾芭蕉の遺骨は木曾義仲の墓の隣に葬られ、会葬には多くの弟子が集まったそうです。

松尾芭蕉と服部半蔵の関係性

伊賀の忍者として有名な服部半蔵と俳人である松尾芭蕉にはどのような関係性があるのでしょうか。

松尾芭蕉に関して明確な記録は残されておらず、謎の多い人物とされています。

このことから徳川家康に仕えていた忍者服部半蔵と松尾芭蕉は同一人物なのではと噂されることがあるようです。

松尾芭蕉と服部半蔵は同一人物と噂される理由はいくつかありますが、そのうち2つを紹介します。

 

理由① 厳しい関所を通過できた

松尾芭蕉は伊賀国(現在の三重県伊賀市)出身とされています。

一方、服部半蔵の出身地は分かっていませんが、服部半蔵は本能寺の変の際、徳川家康を安全な場所まで護衛した伊賀衆、甲賀衆を率いていました。

この護衛を機に伊賀衆、甲賀衆は徳川家康に優遇されるようになります。

松尾芭蕉は旅の際、明確な身分もないまま交通規制の多い諸国を巡りました。その際、厳しい関所を「俳句を読み歩く旅」を理由として通過できるのか疑問視されます。

このことから松尾芭蕉は徳川家康に優遇された伊賀衆、甲賀衆の筆頭候補・服部半蔵だったため、厳しい交通規制のある中、諸国を周れたのではないかとされています。

 

理由② 「奥の細道」を歩いた距離が異常?

松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に出た際、その総距離は約2,400㎞もありました。もちろん現代とは違い、交通機関などはなく徒歩で諸国を巡ります。

この「奥の細道」の旅では1日に歩く距離は約45㎞とされ、当時45歳だった松尾芭蕉が1日にこの距離を歩くためには、異常な脚力と体力がなければ不可能と考えられました。

このことから松尾芭蕉は実は忍者だったのではと考えられ、当時の有名な忍者服部半蔵に結び付いたようです。

 

さいごに

代表作「奥の細道」を残した松尾芭蕉は、日本の各地を旅し、美しい風景や日本の詫び寂びを詠み込みました。

一方で、謎の多い俳人であったため松尾芭蕉と服部半蔵は同一人物なのではとされます。同一人物である明確な証拠はありませんが、双方、謎の多い人物なので同一人物である可能性はあるかもしれませんね。