福沢諭吉の名言・格言!人生・努力について紹介

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日本の武士、蘭学者、啓蒙思想家、教育者、慶應義塾の創設者であり、一万円紙幣表面の肖像である福沢諭吉。

今回はそんなの福沢諭吉についての名言・格言を紹介していきます。

福沢諭吉の【人生】に関する名言・格言

天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。

 

行為する者にとって、行為せざる者は最も過酷な批判者である。

 

自分の悪かったことに気が付いて改めるというのは立派なことだ。

 

進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む。

 

空想はすなわち実行の原案。

 

人生は芝居のごとし、上手な役者が乞食になることもあれば、大根役者が殿様になることもある。とかく、あまり人生を重く見ず、捨て身になって何事も一心になすべし。

 

信の世界に偽詐多く、疑の世界に真理多し。

 

未だ試みずして、先ず疑うものは、勇者ではない。

 

独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人にへつらうものなり。

 

人間は、負けるとわかっていても、戦わねばならない時がある。だから、たとえ負けても勝っても、男子は男子なり。勝負をもって人物を評することなかれ。

 

自ら労して自ら食うは、人生独立の本源なり。

 

人生、万事、小児の戯れ。

 

難きを見て為さざるは、丈夫の志にあらず。

 

人は他人に迷惑を掛けない範囲で自由である。

 

賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとによって出来るものなり。

 

人は、生まれながらに、貴賤貧富の別なし。ただ、良く学ぶ者は、貴人となり、富人となり、そして、無学なる者は、貧人となり、下人となる。

 

自由と我儘(わがまま)との界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。

 

自分の悪かったことに気が付いて改めるというのは立派なことだ。

 

今日も、生涯の一日なり。

 

社会共存の道は、人々自ら権利をまもり幸福を求むると同時に、他人の権利幸福を尊重し、いやしくもこれを侵すことなく、もって自他の独立自尊を傷つけざるにあり。

 

顔色容貌の活溌愉快なるは人の徳義の一箇条にして、人間交際において最も大切なるものなり。

 

私は軽蔑されて侮辱されても、その立腹を他に移して他人を辱めることはドウしてもできない。

 

親子だというても、親は親、子は子だ。その子の為に節を屈して子に奉公しなければならぬということはない。

 

妊娠中に母を苦しめ、生れて後は三年父母の懐を免れず、その洪恩は如何と言えり。

 

結婚は人生の重大事なれば、配偶の選択は最も慎重ならざるべからず。

 

政治は悪さ加減の選択である。

 

かくして、人たるものは他人の権利の妨げさえしなければ、自由に行動すべきで、他人の利害に関係せぬ以上ははたからあれこれ口を出されるいわれはない。好きなところへ行きいたいと思う場所にとどまり遊ぼうと働こうと寝ていようとそれは本人の勝手なのである。

 

あまり人生を重く見ず捨て身になって何事も一心になすべし。

 

家の美風その箇条は様々なる中にも、最も大切なるは家族団欒、相互にかくすことなき一事なり。

 

日本人も 西洋諸国の人民も同じ天地の間にあって同じ太陽、同じ月・海・空気を共にし互いに通じ合う人情を持つ人民ではないか。余った産物は与え外国に余っている物産はもらい教え合い、学び合い恥じたり自慢したりせず互いに相手国の便利を考えてその発展を願うべきであろう。

 

人間の行動にはおのずから制約がなくてはならない。また行動するには時と場所をわきまえていなくてはならぬ。道徳を説くことが大切だからと言っても楽しい宴会の最中に突然説教をはじめたら笑いものになるのが落ちだ。場所柄や時節柄をよくわきまえて行動を制御するのも確かな判断力による。行動だけが活発で判断力にかけているのは、舟に舵がないようなものだ。役に立たぬどころか、害を及ぼすことの方が多い。

 

他人の迷惑にならない「欲望」は、すべて善である。

 

自分の考えだけで、他人を評価してはならない。

 

顔色や容貌をいきいきと明るく見せることは人間としての基本的なモラルである。なぜなら人の顔色は家の門口のようなものだからである。広く人と交際して自由に付き合うには門をひらき入口を清潔にし、客が入りやすくすることが大事である。ところが、本心は人と交際を深めたいのに顔色に意を用いず、孔子の格言を信じてことさら渋い顔つきを示すのは入口にガイコツをぶら下げ門前に棺桶を置いているようなものである。これでは誰も近づかなくなる。

 

理想が高尚でなければ活動もまた高尚にはならない。

 

理論と実行とは寸分の食い違うことなく一致させねばならない。

 

みだりに他人を軽蔑すれば必ず他人からも軽蔑されるものだ。

 

ひとこと忠告したい。後進の青年諸君。もし他人の仕事に不満だったら自分でその仕事を試みてみたまえ。他人の商売のやり方がまずいと思ったら、自分でその商売をやってみたまえ。隣家の生活がずさんに思えたら、自分の家で試してみたまえ。また、他人の著書を批判したいと思うなら、まず自分で筆を執って、書物を著してみることだ。学者を批判したければ、学者になることだ。医者を批判したければ、医者になることだ。世の重大事から、ごく些細な事にいたるまでたといどんなことでも、他人の行動に口出ししようと思うなら、試しに自分をその立場においてみずからをふり返ってみるべきである。まったく性格の違う職業だったらその仕事の難易や意味の軽重をよくよく推し量ってみるべきである。たとい種類の違う仕事でもその仕事の内容にまで立ち入って仕事の中味を基準にし自分と他者との立場を比較すれば、そこに大きな誤りは生じないはずなのである。

 

学べば貴・富・賢になる。学ばなければ賎(せん)・貧・鈍になる。

 

金銭は独立の基本なりこれを卑しむべからず。

 

健康な体と才能があれば時期が巡ってきたら必ず開花する。それを焦って幼いうちから無理に学ばせて勉強嫌いにさせてはいけない。

 

独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は、必ず人を恐る、人を恐るる者は、必ず人にへつらうものなり。

 

独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は、必ず人を恐る、人を恐るる者は、必ず人にへつらうものなり。

 

福沢諭吉の【努力】に関する名言・格言

努力は、「天命」さえも変える。

 

学問は米をつきながらも出来るものなり。

 

一度、学問に入らば、大いに学問すべし。農たらば大農となれ、商たらば大商となれ。

 

学問の本趣意は、読書に非ず、精神の働きに在り。

 

読書は学問の術であり、学問は事業の術である。

 

活用なき学問は、無学に等しい。

 

一家は習慣の学校なり。父母は習慣の教師なり。

 

やってもみないで、「事の成否」を疑うな。

 

学問を志した以上、大いに学問に励むべきだ。農業に就くなら豪農に、商業に入るなら大商人になりたまえ。学生は小さな安定に満足してはならない。粗衣、粗食、寒暑に耐え米をまき、薪を割り、それでも学問はできるのである。

 

学問の本質は学問を自分がどう活用できるかにかかっている。現実社会に応用できないような学問は無学と言われても当然である。

 

人に貴賎はないが勉強したかしないかの差は大きい。

 

古典の「古事記」を暗記していてもこんにちの米の値段を知らないのでは、日常生活の知識すらない男というほかない。中国の古典の 奥義をきわめても商売のやり方を知らず、取引ひとつできぬようでは、収支の知識の問屋にすぎない。それではめし食べる辞書であり国のためには無用の長物国家経済にとっては、有害な穀潰しと言っていい。

 

自分の力を発揮できるところに、運命は開ける。

 

世間の物事は、進歩しないものはすたれ、退かず努力するものは必ず前進する。進みも退くもせずに、ぐずぐず止まっているものなどあるはずがないのである。