宮沢賢治は大正から昭和にかけて活躍した詩人、童話作家です。
代表作品に「銀河鉄道の夜」「注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュ」「雨にも負けず」などを残しました。
作家活動を行っていた宮沢賢治でしたが、37歳で亡くなります。
そんな宮沢賢治の生涯、代表作品、名言、また妹や死因について解説していきます。
宮沢賢治の生い立ち
宮沢賢治は明治29年(1896)8月27日、父・宮澤政次郎と母・イチの長男として現在の岩手県花巻市である岩手県稗貫郡里川口村で誕生しました。
明治36年(1903)花巻川口尋常小学校に入学すると、担任・八木英三から「未だ見ぬ親」「海に塩のあるわけ」などの童話を聞かされ、後の宮沢賢治の作家活動に大きく影響を与えることとなります。
小学校の頃は、鉱物採集や昆虫の標本づくりを熱心に行っていた少年であり、家族から「石コ賢さん」というあだ名が付けられていました。
明治42年(1909)岩手県立盛岡中学校に入学すると、3年生の頃から石川啄木に影響を受け、短歌の制作を始めます。
その後、中学校を卒業した宮沢賢治は肥厚性鼻炎の手術を受けるため4月に盛岡市岩手病院に入院するも、発疹チフスの疑いがあったため5月末まで入院生活を送りました。
盛岡高等農林学校に入学
大正4年(1915)に盛岡高等農林学校に入学すると、農村改良を志向していた保阪嘉内と親しくなり、大正6年(1917)保阪嘉内、小菅健吉、河本義行とともに同人誌「アザリア」発行します。
この雑誌の中には、宮沢賢治の短歌や短編が掲載されました。
しかし、翌年の3月13日、「アザリア」の中に掲載された保阪嘉内の作品が原因で除籍処分となり盛岡高等農林学校を卒業するも、研究生として残り、稗貫郡の土性調査を行います。
4月28日に行われた徴兵検査では兵役免除となり、同年8月「蜘蛛となめくじと狸」「双子の星」を執筆します。
法華経への信仰心を深める
同年12月26日、宮沢賢治の妹・トシが肺炎のため東京帝国大学医学部附属病院小石川分院に入院したと知らされます。
妹・トシは宮沢賢治と2歳離れてた妹で、東京に進学していました。
この妹の入院の際、宮沢賢治も看病を行っていましたが、3月3日に妹・トシが退院すると、妹とともに花巻へと帰り、家業を手伝う日々を送りました。
大正9年(1920)農林学校研究生を卒業すると法華宗の宗教団体・国柱会に入会し、法華経への信仰心を深めます。
宮沢賢治の父は、浄土真宗の門人であったため、対立もあったとされています。
妹・トシを亡くす
大正10年(1921)1月23日、宮沢賢治は花巻の実家から家出をし、東京へ向かいます。
本郷菊坂町に下宿すると、謄写版印刷所である文信社で勤め始めました。
この頃、「法華文学」の制作も始めたとされています。
しかし、8月中旬花巻の実家から妹・トシが再び病を患ったと電報が入り花巻へと戻りました。
花巻へと戻った宮沢賢治は稗貫郡立稗貫農学校の教員となります。
この頃も執筆活動を行っており、雑誌「愛国婦人」の12月号と翌年の大正11年(1922)に宮沢賢治の作品「雪渡り」が掲載されました。
大正11年(1922)11月27日、妹・トシの体調が急変し、24歳の若さで亡くなります。
葬儀は真宗大谷派の寺で行われたため、法華宗の宮沢賢治は参加できませんでした。
それから半年、詩の制作は行われず、大正12年(1923)に農業学校の仕事関係で樺太に旅行に行った際、妹・トシを歌った「青森挽歌」「樺太挽歌」などが制作されます。
大正13年(1924)4月20日、自費出版で「心象スケッチ 春と修羅」を刊行、その後、同年12月1日、「イーハトヴ童話 注文の多い料理店」を刊行、翌年7月には詩人・草野心平の同人誌「銅鑼」に参加します。
羅須地人協会の設立
大正15年(1926)3月31日、百姓になるため花巻農学校を退職します。
4月に妹・トシが生前、治療生活を行っていた下根子桜の別宅に移り住み、野菜の栽培を行いました。
また「羅須地人協会」を設立し、農学校の卒業生や農民を集め農業や肥料の講習、音楽楽団の練習などを行います。
12月2日に上京すると、父の仕送りの元でタイプライター、セロ、オルガン、エスペラント語などを習いました。
しかし、昭和2年(1927)「岩手日報」の夕刊二面に宮沢賢治の行った農業や肥料の講習や音楽楽団の練習などの活動が掲載され、花巻警察から社会主義教育と疑われたため、これ以降、音楽楽団の練習などは行われませんでした。
その後、昭和3年(1928)伊豆大島に住む伊藤七雄を尋ねます。
伊藤七雄はかねてから宮沢賢治に、大島で園芸学校を建設するための相談をしていました。
しかし、宮沢賢治は肥料相談や稲作指導に奔走していた最中、両側肺湿潤となり、実家で療養となります。
宮沢賢治の最期、死因
昭和5年(1930)実家で療養していた宮沢賢治は、体調が回復すると執筆活動を再開し始めました。
この頃、東北砕石工場主の鈴木東蔵が宮沢賢治に、安価な合成肥料の販売の計画を持ちかけます。
この計画に賛同すると、昭和6年(1931)に、東北砕石工場花巻出張所が開設されました。
宮沢賢治は病み上がりでしたが、合肥肥料の注文取りや販売に力を注ぎ、9月19日には上京し販売活動を行うようになります。
しかし、翌20日に宮沢賢治は倒れ再び花巻に戻り療養生活となりました。
この際に書かれたのが「雨ニモマケズ」です。
昭和8年(1933)9月20日に医者から急性肺炎の兆しと診断されます。
翌日の9月21日午前11時半、宮沢賢治は病室で突然、「南無妙法蓮華経」と唱え始め、驚いた家族に国訳の妙法蓮華経を一千部制作するよう頼むと、その数時間後の午後1時半、宮沢賢治の容態は急変し37歳で亡くなりました。
死因は急性肺炎とされています。
宮沢賢治の代表作品
宮沢賢治は数々の作品を残しました。
その中の代表作品をご紹介いたします。
「銀河鉄道の夜」
宮沢賢治による童話作品です。
孤独な少年ジョバンニと友人・カムパネルラが銀河を旅するといった物語となっています。
大正13年(1924)頃に執筆され、宮沢賢治の死後、昭和9年(1934)に出版されました。
「注文の多い料理店」
宮沢賢治による短編童話作品です。
狩猟をしていたブルジョアの青年2人が、森の中で一軒のレストラン「山猫軒」を見つけるところから、物語は始まります。
大正13年(1924)に出版されました。
「セロ弾きのゴーシュ」
宮沢賢治の童話で、「羅須地人協会」を主催した頃に、宮沢賢治がチェロを練習していたため、その経験が、この物語に反映されています。
主人公・ゴーシュは演奏が下手でしたが、カッコウなど様々な動物が夜毎に訪れ、ゴーシュに演奏を依頼し、ゴーシュの演奏技術が上達していくといった物語です。
宮沢賢治が亡くなった翌年の昭和9年(1934)に発表されました。
「雨ニモマケズ」
宮沢賢治が亡くなってから発見された遺作となる詩のメモです。
宮沢賢治が使用していた手帳に昭和6年(1931)11月3日に記された詩で、宮沢賢治の没後1年目の昭和9年(1934)9月21日付の「岩手日報」夕刊に「遺作(最後のノートから)」と題してこの詩が掲載されました。
名言
宮沢賢治は多くの作品を残し、その中で、名言となる言葉を数々残しました。
「農民芸術概論綱要」に記された言葉です。
「銀河鉄道の夜」に記された言葉です。
「雨ニモマケズ」に記された一文です。
「春と修羅」に記された言葉です。
最後に
宮沢賢治は、日本を代表する童話作家、詩人の1人です。
宮沢賢治は童話作家だけではなく、土壌研究者、農業指導者などの幅広いジャンルで活躍した人物でありました。
小学校や中学校の学校教科書に多くの作品が取り上げられ、宮沢賢治の作品を知らないという方はいないのではないでしょうか。
宮沢賢治の死因は急性肺炎とされていますが、妹・トシの死因も肺炎であり、今でこそ完治する病気ですが、当時は肺炎で命を落とす者が多かったとされています。