本居宣長について!和歌・古事記伝・歌論書、名言や子孫について解説!

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本居宣長は江戸時代に活躍した国学者、文献学者、医師です。

古事記の研究に取り組んだ本居宣長は注釈書である「古事記伝」を残し、その他にも、和歌を題材にした歌論書となる「排蘆小船」隋筆「玉勝間」などを残しました。

そんな本居宣長の生涯や、「古事記伝」歌論書「石上私淑言」、また名言や子孫について解説していきます。

本居宣長の生い立ち

本居宣長は享保15年(1730)6月、現在の三重県松阪市である伊勢国松坂の木綿仲買商を営んでいた小津家の次男として誕生します。

元文2年(1737)本居宣長は8歳の頃、町の寺子屋で勉学を励んでいました。

元文5年(1740)11歳を迎えた頃、父を亡くします。

父が亡くなった5年後の延享2年(1745)16歳となった本居宣長は江戸大伝馬町にあった叔父の屋敷で寄宿するも翌年には松坂に戻り寛延元年(1748)19歳であった本居宣長は伊勢山田の紙商兼御師であった今井田家に婿養子として嫁ぎました。

しかし、3年後の寛延3年(1750)には離縁したとされ、再び松坂に戻ります

この頃から本居宣長は和歌を詠み始めたとされています。

 

医師を志すも、古典学にも興味を持つ

宝暦2年(1752)22歳の時に、義兄・定治が亡くなると、本居宣長は木綿仲買商を営んでいた小津家を継ぎましたが、商売には興味はありませんでした。

本居宣長は自身の母の勧めもあり、医者を志すようになります。

医者を目指した本居宣長は京都へと向かい堀元厚、武川幸順から医学を学び、堀景山からは儒学を学びました。

また、医学や儒学だけではなく日本固有の古典学にも興味を持ち、また京都に住んでいたため王朝文化にも憧れを抱くようになります。

この年には、姓「小津」から先祖の姓である「本居」に改めました。

 

医師となるも「古事記」の研究を行う

宝暦7年(1758年)京都から松坂に戻った本居宣長は医師となり、開業しました。

またそのかたわら、「源氏物語」の講義や「日本書紀」の研究など行うようになります。

本居宣長が27歳の時、江戸時代中期の国学者で古典研究を行っていた賀茂真淵の本を書店で見つけ、国学を学ぶようになりました。

その後、本居宣長は賀茂真淵と文通を交わし、宝暦13年(1763)5月25日、賀茂真淵から古事記の注釈について指導を受けるために賀茂真淵への入門を強く希望します。

同年の年末頃になると、賀茂真淵は本居宣長の入門を許可し、本居宣長は、賀茂真淵の弟子となることとなりました。

まず、師となった賀茂真淵は万葉仮名に慣れるまで、本居宣長に「万葉集」の注釈を行うよう指示します。

その後、万葉仮名に慣れた本居宣長は「古事記」の研究に取り組むようになります。

 

本居宣長の晩年、「古事記伝」の完成

本居宣長は紀州藩に仕えていましたが、それは一時的なものでした。

生涯のほとんどを学者として過ごします。

「古事記」「源氏物語」江戸時代以前の日本外交史などを研究していた本居宣長には門人が多く集まりました。

天平年間の末頃から門人の数は急激に増加し、天明8年 (1788) 末の門人数は164人であったとされています。

本居宣長は60歳の時、名古屋、京都、和歌山、大阪、美濃といった各地を旅して廻りました。

この旅では、各地にいる門人を激励するなど行っていたとされています。

寛政5年(1793)64歳の時、本居宣長は自らの学問や思想、信念を記述した散文集である「玉勝間」を書き始めました。

寛政10年(1797)69歳の時に、「古事記」の研究の注釈書である「古事記伝」が完成します。

古事記を研究し始めてから34年後の事でした。

寛政12年(1800)71歳になると「地名字音転用例」を刊行します。

同年、「地名字音転用例」を刊行した本居宣長は71歳で亡くなりました。

古事記の注釈書「古事記伝」

本居宣長は医師として働くかたわらで、「古事記」の研究も行っていました。

当時はあまり「古事記」について知られておらず、「古事記」を読むのにはかなりの時間を要しました。

「古事記」で用いられたいる上代特殊仮名遣は本居宣長によって発見されたとされ、宝暦14年(1764)から「古事記伝」は起稿され、35年たった寛政10年(1798)にわかりやすく注釈の付けられた「古事記伝」は完成しました。

この「古事記伝」は全44巻からなり、現代においても古代文化研究の基本書となっています。

よって、現在ある「古事記」の註釈書は本居宣長の注釈書「古事記伝」を訂正されたものが主流となっています。

 

歌論書「石上私淑言」

歌論書「石上私淑言」は宝暦13年(1763)頃に書かれた書物です。

本居宣長は、目で見たものや、耳で聞いたことによって、しみじみとした情趣を感じること、また無常観的な哀愁を「もののあはれ」としました。

「源氏物語」はこの「もののあはれ」を本質とした物語であると規定します。

本居宣長は歌論書「石上私淑言」を書く以前に処女作となる和歌の本質についてが記された「排蘆小船」を残していました。

歌論書「石上私淑言」は「もののあはれ」を基軸とし、「排蘆小船」に記された和歌論を更に展開した内容となっています。

 

名言

本居宣長が残した名言を2つご紹介いたします。

名言①
「才のともしきや、学ぶことの晩きや、暇のなきやによりて、思いくずおれて、止ることなかれ。」

この言葉は本居宣長が学問論である「うひ山ぶみ」に残した言葉です。

才能がないだとか、学び始めるのが遅かった、学ぶ時間がないといった理由で、落ち込んだりして学ぶことをやめてはいけない。といった意味が込められました。

名言②
「かぎりを行うのが人の道にして、そのことの成ると成らざるとは人の力に及ばざるところぞ。」

この言葉は「玉くしげ」に残された言葉とされています。

できる限りの事をする。それをできる人と、できない人がいる。といった言葉の意味です。

いくらできる限りの事をしたとしても、上手くいく人と、いかない人がいる。ということです。

 

子孫

本居宣長は、生涯の2回結婚をしていました。

1回目となる結婚では子供はできず再婚相手である妻・勝との間に二男三女が誕生します。

 

長男・本居春庭

春庭は本居家を継ぎました。

春庭とその妻・壱岐との間には伊豆と、有郷が誕生します。

しかし、失明したため養子として大平を迎えます。

 

次男・本居春村

春村は津の薬種商小西のもとに養子として迎えられます。

 

長女・本居飛騨

飛騨は四日市の高尾氏のもとに嫁ぎました。

 

次女・本居美濃

美濃は長井家に嫁ぎます。

 

三女・本居能登

能登は伊勢の御師安田広治に嫁ぎました。

 

現代に続く子孫

本居宣長の子孫は、本居春庭の養子・大平が三重の松坂から和歌山に移ったことによって、松坂系と和歌山系に分かれました。

その後も、松坂系と和歌山系の子孫は続き、現在においても本居宣長の家系は絶えることなく続いています。

 

最後に

本居宣長は医師でありながらさまざまな学問を学んだ人物でした。

現在、私たちが「古事記」を分かりやすく学べるのは本居宣長が「古事記」の注釈書となる「古事記伝」を残してくれたおかげです。