現代の日本と中国の政治関係にいまだに影響を及ぼし続けている戦争、日中戦争についてその原因や勝敗、死者数をわかりやすく解説します。
この戦争はいまだに立場によって見解が異なり、名称、開始時期や犠牲者数にはいろいろな説があります。
ここでは一般的な事項を解説し、合わせて年表も掲載します。
日中戦争の原因・満州事変
日中戦争の直接原因は、1931年に関東軍が起こした満州事変だと言われています。
関東軍は、1931年に柳条湖にある南満州鉄道の線路を爆破し、中国軍の仕業と見せかけて軍事行動を開始します。
関東軍の目的は、日露戦争でロシアから獲得した、満州の権益を守ることでした。
当時の中国は国民党や共産党、軍閥などが入り乱れての混乱状態でしたが、ナショナリズムの高揚から満州の権益を回収しようという国民党の動きがあり、早急に行動を起こす必要があると関東軍は考えていました。
その後、満州鉄道沿線を中心に進軍、満州全土を占領すると、清朝最期の皇帝・溥儀を担ぎ出して満州国を建設しました。
満州事変の背景
関東軍が必死に満州の権益を守ろうとした背景には昭和恐慌がありました。
世界恐慌の影響で日本でも恐慌が起こり、大手企業が相次いで倒産し、都市部には失業者があふれました。
農村部でも米と生糸を中心に農作物の価格が下落したことで農業恐慌が発生します。
さらに追い打ちをかけるように東北地方では凶作も起こり、欠食児童や女子の身売りが続出しました。
こうした背景があり、地下に鉱物資源が豊富にあり、農民の移住先として最適だと目されていた満州の権益を守りたかったのです。
日中戦争へ突入していった日本
国際社会からの孤立
中国が「日本の満州国建国は侵略だ」と国際連盟に抗議すると、事実確認のためにリットン調査団が派遣されました。
結果として国際連盟から日本に対して、中国からの撤兵が求められますが、日本はこれに反発。国際連盟から離脱し、国際的に孤立状態となります。
日本の右傾化
1930年代の日本は急速に右傾化し、軍部の影響力が強くなりました。
関東軍の起こした満州事変は関東軍独断で行われたのですが、処罰されず、むしろ後押ししていくかたちでなし崩し的に戦争へ突入していきました。
頻発したテロ・クーデター
日本では1930年から1932年にかけてテロとクーデターが頻繁に起こり、次第に軍部の影響力が強まっていきます。
特に1932年に起きた一一五事件では、首相・犬養毅が海軍将校に暗殺され、元海軍の斎藤実が首相になります。
斎藤は政党に関わりなく人材を登用し、挙国一致内閣を推進しました。
そして内閣は軍部寄りの人選になり、軍部の影響力が強くなっていきます。
二二六事件
そして軍部の影響力が決定的になったのは二二六事件からです。
1936年2月26日、日本陸軍の一部の青年将校がクーデターを起こし、複数の政府要人を殺害しました。
彼らは政党内閣に不満を持ち、政党や財閥を排除し天皇親政の国家を再建して、軍が政治の実権を握ることを目指していました。
天皇の指示で反乱軍は4日で制圧されましたが、この事件以後は軍部大臣現役武官制になります。
内閣のメンバーに必ず現役の軍人を入れなければならなくなり、軍部の意見を無視できなくなりました。
武力衝突のきっかけ 盧溝橋事件
北京郊外盧溝橋付近で1937年7月7日の夜中から8日の早朝にかけて、日本軍(支那駐屯軍)が夜間演習をしていたとき、何者かが実弾を発砲。
すると日本軍は中国軍から攻撃を仕掛けられたと思い込み、日本軍と中国軍が武力衝突します。
銃撃戦は2時間で終わり、11日には協定を取り交わして停戦となり、盧溝橋事件は比較的速やかに終息しました。
しかし、中国全土が混乱状態であったために情報が伝わらず、各地で次々と軍事衝突が起こり、戦争状態になります。
南京事件による大量虐殺
1937年12月、関東軍は当時の中国の首都・南京を占領すると、非戦闘員である女子供を大量に虐殺するという南京事件を起こしました。
死者数には諸説ありますが、虐殺行為が行われたのは確かです。
これは当然ながら国際社会から批判を浴びました。
そして南京に新政府を建てますが、中国からは支持されませんでした。
戦争の長期化
日本は、南京占領で中国が戦意を喪失して早期解決ができると考えていましたが、中国から徹底抗戦にあい、泥沼化しました。
中国側は国民政府と共産党が連携し一体となって抵抗し、アメリカ、イギリス、ソ連が中国への援助を行ったのです。
実は日本は国民政府と和平交渉を進めていたのですが、和平が難しくなると、「国民政府を相手にせず」とみずらから和平の道を断ち切ってしまいました。
そして日本・中国・満州のブロック経済圏を造ろうとします。
日本は戦争の早期終結のために、アメリカとイギリスの中国への補給路を断とうと考え、フランス領インドシナに侵攻します。
太平洋戦争へ
制裁としてアメリカは、アメリカ国内の日本資産を凍結し、航空機用のガソリン・屑鉄の補給輸出を禁止しました。
石油をアメリカからの輸入に頼っていた日本は、この状況を打開するには「宣戦布告しかない」と考え、真珠湾攻撃を仕掛けて、アメリカに宣戦布告します。
こうして日中戦争が終わらないうちに、太平洋戦争に突入していきました。
死者数
日本軍の死者数は70万人とも言われています。ソ連から宣戦布告されて、降伏した後の関東軍は60万人がソ連に抑留されますが、うち6万人が死亡しました。
日中戦争のその後
日中戦争は、太平洋戦争と同時に終結しました。
「全日本の無条件降伏」を含むアメリカ・イギリス・中国のポツダム宣言がだされると、日本は黙殺します。
アメリカが原子爆弾を広島と長崎に投下し、ソ連からも宣戦布告されると、1945年8月15日、ようやく日本はポツダム宣言を受託し、日本の敗戦となりました。
年表
1931年 満州事変
1937年 盧溝橋事件
1945年 日中戦争終結