二宮金次郎(二宮尊徳)とは?銅像や歌、名言や子孫について解説!

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小学校に銅像として建てられている二宮金次郎は江戸時代後期に活躍した経世家、農政家、思想家でもある人物です。

二宮尊徳という名前は諱にあたります。

二宮尊徳という名前は、「にのみやそんとく」と有職読みで読まれることがありますが、正確には「にのみやたかのり」と読みます。

二宮金次郎は災害を受けたため貧しい環境で育つも、数々の努力によって生家を再興させ、また天保の大飢饉の際には多くの被災者を救いました。

そんな二宮金次郎の生涯や、小学校に建てられる二宮金次郎の銅像、また「二宮金次郎」という歌、名言や子孫について解説していきます。

二宮金次郎の生い立ち

二宮金次郎は現在の現在の神奈川県小田原市栢山にあたる相模国足柄上郡栢山村で百姓であった二宮利右衛門の長男として誕生します。

二宮金次郎には、二宮三郎左衛門の養子である友吉と富治郎という弟がいました。

二宮家は、養父・銀右衛門から13石の田畑と邸を貰い受けていたため、裕福な家庭でした。

寛政3年(1791)8月5日、二宮金次郎が5歳の頃、関東を襲った暴風雨によって、二宮家近くにあった酒匂川は氾濫し、二宮家のある東栢山一帯は流されてしまいます。

二宮家は田畑だけではなく家も流されるといった被害に遭いました。

数年後には、家や田畑は復旧しますが、父・二宮利右衛門は浪費家であったことから、借金を抱えるようになり、家計は貧します。

そんな中、寛政9年(1797)二宮金次郎が12歳の時、酒匂川堤防工事の夫役をしていた父・二宮利右衛門が眼病を患ってしまいます。

そのため、二宮金次郎は父に代わって酒匂川堤防工事の夫役を務めましたが、二宮金次郎は自身がまだ少年であるため働きが足りないと責め、自ら草鞋を作り酒匂川堤防工事に関わる人に配りました。

寛政12年(1800)父・二宮利右衛門の容体は悪化し、亡くなります。

父を亡くした二宮金次郎は一家を支えるため、薪とりや草鞋作りに励みました。

しかし、家計は苦しくなる一方で、享和2年(1802)母を亡くします。

この時、まだ16歳であった二宮金次郎は、幼い2人弟を母の実家に預け、自身は祖父・萬兵衛の下で身を寄せました。

この年、再び酒匂川が氾濫し、二宮金次郎の実家の田畑は水害によって失ってしまいます。

 

祖父・萬兵衛のもとに身を寄せる

祖父・萬兵衛のもとに身を寄せた二宮金次郎は農業に励む毎日を送ります。

ある夜、二宮金次郎は蝋燭を灯し、読書をしていました。

しかし、祖父・萬兵衛はケチな性格であったために、「灯油の無駄使い」と叱り、二宮金次郎を罵るようになったとされています。

文化元年(1804)二宮金次郎は祖父・萬兵衛のもとを離れ同村にある親族・岡部伊助方に寄宿、翌年には親戚の二宮七左衛門方に寄宿します。

文化3年(1806)二宮金次郎は20歳の時、実家に戻り家の修復や田畑の整備などをはじるも、弟・富治郎を亡くします。

二宮金次郎の努力は報われ生家の再興をはたすと、農業を行いながら武家奉公人としても働きに出ました。

文化5年(1808)亡き母の実家である川久保家が貧困状態となると、二宮金次郎は資金を援助します。

この頃、小田原藩の家老・服部十郎兵衛が服部家の家政の建て直しを依頼します。

二宮金次郎は、この依頼を引き受け文化11年(1814)に服部家の家政の建て直しを終えるも、家老・服部十郎兵衛からの金300両の報酬は受け取りませんでした。

 

結婚と再婚

文化13年(1816)堀之内村の中島弥三右衛門の娘・きのと結婚します。

しかし、妻との間の子供が早くして亡くなると妻・きのとは離縁となります。

翌年、34歳の二宮金次郎は、16歳の岡田峯右衛門の娘・なみと再婚しました。

 

再興救済を行う

文政4年(1821)小田原藩主大久保家の分家・宇津家の旗本知行所である下野国芳賀郡桜町が荒廃していたため再興救済を大久保家から依頼されます。

そのため文政6年(1823)には下野国芳賀郡桜町に移り住み、再興救済を行いました。

文政9年(1826)二宮金次郎は、組頭格に昇進し桜町主席となり、天保2年(1831)には下野国芳賀郡桜町の再建を成し遂げます。

 

飢饉から民を救う

天保4年(1833)に洪水や冷害によって引き起こされた天保の大飢饉、関東地方を襲います。

この際、二宮金次郎は幕府の命令を受け大久保領の領民を救出しました。

翌年の天保5年(1834)には谷田部細川家の家政を改善するなどを行います。

天保7年(1836)幕府から小田原へと呼ばれた二宮金次郎は、功績を称えられると同時に、飢饉にある小田原の領民の救済を命じられました。

この飢饉に対して二宮金次郎は、蔵米を被害を受ける民に与え、村々を救います。

 

晩年

天保11年(1840)になると田方郡多田弥次右衛門家を再興、弘化元年(1844)には日光山領の農村復興を行います。

翌年、下野真岡の代官山内氏の属吏となり真岡に移住した二宮金次郎はでしたが、安政3年(1856)に病を発症し、70歳で亡くなりました。

二宮金次郎の銅像について

二宮金次郎の薪を背負い本を読んでいる銅像は多くの小学校に建てられています。

小学校に二宮金次郎の銅像が建てられるようになったのは、大正13年(1924)からだとされています。

当時、日本は自主的に国家に献身、奉仕する国民を増す目的の政策を行っていました。

二宮金次郎は生涯において自ら貧困から立ち直り、また飢饉などの被害者を救うなど幕府に貢献した人物でした。

このように幕府に貢献した二宮金次郎は、国民の育成を目的とした政策、勤労、勤勉のモデルとされ、小学校に建てられるようになります。

 

明治37年(1904年)以降、政府が発行する教科書には、二宮金次郎の人生を称え模範するために小学唱歌「二宮金次郎」が歌われるようになります。

 

名言

二宮金次郎は、私利私欲に働くのではなく、社会に貢献する行いをすれば、必ず自らに還元されると説き、生涯において経済と道徳の融和を訴えました。

このような考えを報徳思想といいます。

このような思想を持っていた二宮金次郎は、多くの名言を残しました。

名言①
「凡人は小欲なり。聖人は大欲なり。」

無欲だとされる聖人は、実は大欲である。

聖人の次に、君子が大欲である。

それに比べ凡人は小欲で、学問とは小欲を大欲に導くための術である。

大欲とは、多くの人を貧しさから救い、社会貢献したい。という欲である。

といった意味が込められました。

名言②
「大事をなさんと欲せば、小さなる事を、怠らず勤しむ(いそしむ)べし。
小積もりて大となればなり。凡そ小人の常、大なることを欲して、小なる事を怠り(中略)夫れ大は小の積んで大となる事を知らぬ故なり。」

「報徳記」に残された言葉です。

継続して小さな行いをすれば、のちに大きな事をできる。といった意味が込められました。

子孫

二宮金次郎は生涯2度の結婚をし、長男・徳太郎、次男・尊行、長女・ふみが誕生しました。

 

長男・徳太郎

長男の徳太郎は生後間もなく亡くなりました。

 

次男・尊行

長男・徳太郎は生後間もなくして亡くなっているため、二宮家の嫡男となります。

父・二宮金次郎亡き後も、父の跡を継ぎ御普請役の命を受けました。

嘉永5年(1852)4月、近江大溝藩士・三宅頼母の娘・鉸子と結婚します。

明治4年(1871)に亡くなりました。

2人の間には二宮尊親が誕生しています。

 

長女・ふみ

富田高慶の妻となります。

しかし、嘉永6年(1853)に子供とともに亡くなっています。

 

二宮尊親

安政2年(1855年)11月16日、二宮尊行の長男として誕生します。

明治10年(1877年)、報徳農法を民間に広げるために、興復社が設立され副社長となり、後に社長に就任しました。

 

富田高英

二宮尊行の次男です。

安政5年(1858)に誕生しました。

富田高慶の娘と結婚し、富田家の養子となります。

富田高慶の娘の間にできた子供は相馬家に嫁ぎました。

 

二宮四郎

二宮尊親の四男です。

太平洋戦争が終わると富士豊茂開拓農業協同組合を発足させます。

 

現在に続く子孫

子育て支援などを行う「リレフト」の代表である、中桐万里子さんは二宮金次郎七代目子孫にあたります。

 

最後に

報酬を目的とせず、純粋な気持ちで人々を救い、社会貢献を行っていた二宮金次郎は子供たちの模範となる人物であったので、多くの小学校に銅像が建てられました。

二宮金次郎が、道徳と経済の融合を訴え唱えた報徳思想は災害が多く発生する日本で、必要な思想となっています。