野口英世について!名言・黄熱病・ノーベル賞、お札になった理由や子孫について解説!

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野口英世は医師また細菌学者である人物です。

独学で医術開業試験に合格して医師になるとロックフェラー医学研究所研究員となり黄熱病、梅毒の研究を行いました。

多くの論文を発表しノーベル生理学・医学賞の候補として名前が挙がっていましたが、黄熱病を患い51歳で亡くなりました。

現在発行されている千円紙幣には野口英世の肖像画が描かれています。

そんな野口英世の生涯や死因にもなった黄熱病、ノーベル賞、お札に肖像画が描かれるようになった理由を解説していきます。

野口英世の生い立ち

野口英世は明治9年(1876)11月9日、現在の耶麻郡猪苗代町である福島県耶麻郡三ッ和村に誕生しました。

父・野口佐代助と母・シカの長男として誕生した野口英世は清作と名付けられます。(後に英世と改名)

明治11年(1878)4月、野口英世が1歳の頃、囲炉裏に転落し左手に大火傷を負ったため、左手には障害が残りました。

その後、明治16年(1883)三ッ和小学校に入学した野口英世でしたが、左手に障害を持っていたため同級生から虐められ、また農作業をすることができませんでした。

そんな野口英世に対し、母・シカは将来、学問で生計を立てるように諭されます。

明治22年(1889)4月、教頭であった小林栄は野口英世の優秀な成績に気づき、猪苗代高等小学校に転向させるよう勧めます。

こうして野口英世は、小林栄の計らいもあり、猪苗代高等小学校に入学となりました。

その後、野口英世は左手の障害を嘆いた作文を書くと、この作文を読んだ小林栄や教師、また同級生などが、野口英世の左手の障害を治療するための募金を行います。

この募金のおかげで、野口英世は会津若松で開業していた医師・渡部鼎に手術、治療され、左手の指は障害を残しながらも、使えるようになりました。

野口英世は医師・渡部鼎に大変感謝をし、これ以降、医師を目指すようになります。

 

医師を目指す

明治26年(1893)3月、猪苗代高等小学校を卒業すると医師・渡部鼎が経営する会陽医院の書院として働きます。

この間、約3年半、医学の基礎知識を身に着けたとされて、細菌学も学ぶようになりました。

明治29年(1896)9月、野口英世は医師免許の取得に必要な医術開業試験の前期試験のため医師・渡部鼎から借金をし東京へ向かいます。

医術開業試験に合格した物の資金不足となった野口英世は書生として働いていたころに出会った高山高等歯科医学院の講師・血脇守之助の寄宿舎に泊まり込みました。

またこの頃、野口英世はドイツ語を学ぶためエリザ・ケッペン夫人が行っていた夜学に入ろうとしていました。

しかし、資金が足りず血脇守之助に相談すると、血脇守之助が給料が上がったため、学費を出してくれることとなります。

その後、後期試験に挑むも、後期試験は臨床試験であり、独学では合格できないため、日本医科大へと通います。

この時の学費は血脇守之助が病院の経営を担当していたため、病院の資金から学費が出されました。

 

医師免許を取得

明治30年(1897)野口英世の左手は、不自由なものの指などは動かせるようになっていました。

しかし、後期試験において診察の試験があたっため、血脇守之助の計らいで、帝国大学外科学教授・近藤次繁から左手の無償再手術を受けることとなります。

この手術の結果、左手は以前よりも使えるようになり、後期試験に合格することができました。

こうして21歳の若さで医師免許を取得となります。

しかし、医師免許を取得した野口英世でしたが、開業資金が足りないこと、また手術を行った左手を患者に見られたくない、ということから医者としてではなく基礎医学研究者としての道を選択しました。

この時も血脇守之助の計らいで、高山高等歯科医学院の講師、順天堂医院の助手などを行っています。

伝染病研究所で務める

明治31年(1898)10月、野口英世は順天堂医院の上司であった編纂主任・菅野徹三に研究所の紹介を頼み込みます。

この結果、順天堂医院長・佐藤進の紹介という形で所長・北里柴三郎が務める伝染病研究所を紹介されました。

この伝染病研究所で野口英世は研究することはありませんでしたが、外国図書係となり外国論文の抄録、外人相手の通訳などを行います。

 

改名

この頃、野口英世は、本名・清作から英世に改名しています。

この改名は、同年8月に読んだ坪内逍遥の小説「当世書生気質」に登場する借金を繰り返し、自堕落な生活を送っていた主人公・野々口精作が、自身の名前とまた性格が似ていたため、改名したとされています。

 

伝染病研究所の解雇、横浜港検疫所検疫官補の再就職

明治32年(1899)4月、伝染病研究所に志賀潔の赤痢の研究の視察としてアメリカからサイモン・フレクスナー博士が来日しました。

この時、サイモン・フレクスナー博士の案内役となったのが、野口英世で、野口英世はサイモン・フレクスナー博士に自身の渡米留学の可能性を働きかけます。

その翌月、伝染病研究所の蔵書が野口英世に貸し出した後、書店に売却されるといった事件がおこりました。

そのため野口英世は研究所内勤務から外されることとなりましたが、所長・北里柴三郎の計らいで横浜港検疫所検疫官補の職に就くことができました。

 

国際防疫班に選ばれる

横浜港検疫所検疫官補になった野口英世は同年9月、横浜港に入港した日本の豪華客船・亜米利加丸の船内からペスト患者を発見し、診断を行います。

横浜港検疫所検疫官補として野口英世の業務成果が認められ、清国からペスト対策として伝染病研究所に要請があったため、野口英世は国際防疫班に選ばれました。

半年間、清国に渡った野口英世は現在の海城市である牛荘を中心に治療などを行い、半年の任期が終わった後も、国際衛生局やロシア衛生隊の要請を受けていたため、清国に残りました。

明治33年(1900)5月になると、野口英世はサイモン・フレクスナー博士にアメリカ留学を希望するといった手紙を送ります。

その翌月、清国は義和団の乱が起きたため情勢は不安定となり、野口英世は7月に日本に帰国し東京歯科医学院の講師となりました。

 

アメリカへ渡る

同年12月5日、温泉地の箱根で斉藤文雄の姪・斉藤ます子と出会います。

斉藤ます子は女学生で医師を目指していました。

斉藤ます子と婚約した野口英世は、その婚約金を渡航費に当てアメリカへと渡ります。

アメリカへ渡った野口英世はサイモン・フレクスナー博士のもとでペンシルベニア大学医学部の助手となりました。

この際、サイモン・フレクスナー博士から蛇毒の研究を課題として与えられ、野口英世はその研究結果を論文にまとめると、同大学の理事・サイラス・ミッチェルから絶賛されアメリカ医学界の中で、野口英世の名前は一躍有名となります。

 

ロックフェラー医学研究所に移籍する

明治34年(1901)ロックフェラー医学研究所が設立されます。

この研究所で、キューバの眼科医カルロス・フィンレーとアメリカの軍医、ウォルター・リード大佐が黄熱は蚊によって人々に伝染することを発見しました。

明治36年(1903)10月、野口英世はサイモン・フレクスナー博士の命令でデンマーク、コペンハーゲンの血清研究所に留学します。

この留学で、野口英世は血清学の研究を行いました。

翌年、アメリカに戻った野口英世はロックフェラー医学研究所に移籍となります。

明治38年(1905)野口英世は斎藤ます子との婚約金をもとに渡米していたため、血脇守之助が婚約金を斎藤ます子に返済することで、斎藤ます子との婚約は破棄となりました。

 

メリー・ダージスと結婚

明治44年(1911)8月、「病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表した野口英世は世界に、その名前を広めることとなります。

その後、京都帝国大学病理学教室に論文を提出し医学博士の学位を与えられました。

同年4月10日、アメリカ人のメリー・ダージスと結婚します。

ノーベル賞候補としてあげられる

大正2年(1913)進行性麻痺・脊髄癆の患者の脳病理組織から梅毒スピロヘータを確認し進行性麻痺・脊髄癆が梅毒の進行した形であることを証明します。

翌年4月には東京大学から理学博士の学位が与えられ、ノーベル医学賞候補として名前があげられました。

 

2度目となるノーベル賞候補

大正4年(1915)9月5日、母に会うため15年ぶりに日本に帰国します。

11月4日、再びアメリカへと戻りました。

また自身2度目となるノーベル医学賞候補として名前があげられました。

 

黄熱病を収束、3度目のノーベル賞候補

大正7年(1918)6月、野口英世はワクチンのない黄熱病の病原体発見のためエクアドルへと派遣されます。

当時、エクアドルは、黄熱病が大流行していました。

野口英世は黄熱病の診察をこれまでしたことがありませんでしたが、患者の症状がワイル病に似ていたためワイル病病原体培養法を適用すると、9日後に病原体を特定することに成功しました。

この病原体はレプトスピラ・イクテロイデスと命名され、野口英世は早急にワクチンを作り始めます。

こうしてできたワクチンによってエクアドルで大流行していた黄熱病を収束させることとなりました。

この年には自身3度目となるノーベル医学賞候補に名前があげられます。

翌年の大正8年(1919)12月、ロックフェラー医学研究所から黄熱病の研究、撲滅を目的としてメキシコへ派遣されます。

翌年4月にペルーを訪問すると国立サン・マルコス大学医学部から名誉博士号が与えられました。

 

アフリカ・セネガルで黄熱病が発生

大正12年(1923)7月、野口英世の父が亡くなります。

11月になると日本の帝国学士院会員となりました。

翌年の大正13年(1924)7月、アフリカ・セネガルで黄熱病が発生します。

以前、野口英世が作った黄熱病のワクチンが効かないとイギリス、フランスの研究施設から連絡を受けロックフェラー国際衛生局はナイジェリアのラゴスに黄熱病対策を目的とした医学研究所本部を設置しました。

 

黄熱病の研究のためウエンチ村に向かう

大正15年(1926)、南アフリカ出身の医学者・マックス・タイラーらによって黄熱ウイルスの単離がなされます。

昭和2年(1927)野口英世はトラコーマ病原体を発見しました。

ロックフェラー医学研究所のラゴス本部で黄熱病研究を行っていた医学者・エイドリアン・ストークス博士が黄熱病で亡くなります。

10月23日になると野口英世はアフリカへと向かい黄熱病の研究を取り組みました。

ロックフェラー医学研究所ラゴス本部では、黄熱病において野口英世の研究に対し否定的見解を抱く研究者が多く存在したため、野口英世はロックフェラー医学研究所ラゴス本部での研究を望んでいませんでした。

この事を知ったイギリス植民局医学研究所病理学者・ウイリアム・A・ヤング博士は野口英世に研究施設を貸したため、野口英世は研究を再開することとなります。

しかし、ロックフェラー医学研究所ラゴス本部から病原体のある血液が提供されず、研究は難航となりました。

研究が難航していた野口英世でしたが、ウエンチ村で黄熱病に似た病が発生したと報告を受け12月26日、ウエンチ村へと向かいます。

 

黄熱病によって亡くなる

翌年の 昭和3年(1927)1月2日、ウエンチ村で、黄熱病の疑いのある患者の診察をしていた野口英世は黄熱病に似た症状を発症し、入院します。

病状が回復すると1月5には退院し、研究を再開しました。

同年4月、野口英世はアメリカで研究を続けたいため、5月19日にアクラを出国する。という電報をサイモン・フレクスナー博士に打ちます。

その後、5月11日、ラゴスにあるロックフェラー研究所本部に行った際、体調が急変し黄熱病と診断されました。

5月13日から入院生活を始めた野口英世でしたが、5月21日、51歳で黄熱病によって亡くなりました。

お札に野口英世の肖像画が描かれた理由

現在、流通している千円紙幣には、野口英世の肖像が描かれ、この千円紙幣は平成16年(2004)11月1日から発行されています。

紙幣に描かれる人物は「学術重視、男女共同参画、社会の推進」に焦点を置いて選ばれ、また、功績や知名度、偽造防止の観点から特徴的な顔をした人物を紙幣の肖像に選ぶ条件と定められました。

このような条件に当てはまっているのが、野口英世であったため現在のお札の肖像に起用されたとされています。

 

名言

野口英世の名言をご紹介いたします。

名言①
「障害者であることは、学問においては問題にならない。」

左手に障害を持っていた野口英世でしたが、自身の努力と周囲の助けもあり、学問に力を注ぐことができました。

名言②
「教えに来たのではありません。習いに来たのです。」

野口英世がブラジルを訪れた時に述べた言葉とされています。

名言③
「志を得ざれば再び此の地を踏まず」

野口英世が上京の際、耶麻郡猪苗代町にある実家の柱に掘った言葉です。

 

野口英世の子孫

野口英世はアメリカ人女性・メリー・ロレッタ・ダージスと結婚しましたが、2人の間には子供はおらず、野口英世の直系の子孫はいません。

しかし、野口英世の姉・イヌと弟・清三には子供がおり、野口英世は姉・イヌの長男・栄を養子に迎えました。

よって現在、野口英世の子孫とされているのは、野口英世の姉・イヌの系統ということとなります。

 

最後に

野口英世は世界的にも有名な黄熱病の研究者の1人でした。

3度もノーベル賞候補にあげられるなど、数々の功績を残しましたが、金遣いが荒かったため、学費や留学資金などの援助を行っていた血脇守之助は呆れていたとされています。

しかし、大正11年(1922)に血脇守之助がアメリカを訪れた際、野口英世は血脇守之助をもてなし、血脇守之助に感謝の言葉を送ったとされています。