最澄(伝教大師)とは?性別や空海との違い、天台宗や比叡山との関係について解説!

最澄とは平安時代の僧侶で一乗止観院を創建して比叡山を開いた人物です。

大同元年(806)には天台宗の開宗を行いました。

この功績が称えられ、最澄亡き後、清和天皇によって伝教大師という諡が与えられました。

そんな最澄の性別や生涯、開宗した天台宗、空海との違いを解説していきます。

最澄の生い立ち

最澄は、神護景雲元年(767)8月18日現在の滋賀県大津市坂本を統治していた三津首百枝のもとに誕生したとされています。

幼名は広野でした。

宝亀9年(778年)12歳となった最澄は現在の大津市石山のある近江国分寺に入ると、出家し行表の弟子となります。

その2年後、最澄が14歳の頃、得度し正式に最澄と名乗るようになりました。

 

遣唐使に選ばれる

延暦7年(788)一乗止観院を比叡山に建立しました。

この比叡山一乗止観院は薬師如来を本尊とし延暦20年(801)には法華十講奉修、現在の奈良県に位置する平城京を中心に栄えた南都六宗の高僧たちを講師として呼んだ記録が残されています。

翌年になると、最澄は桓武天皇によって遣唐使の1人に選出されます。

またこの遣唐使の中には空海もいました。

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唐に向かった最澄

唐の仏教を学ぶため、遣唐使に選ばれた最澄は、通訳の義真を連れ延暦23年(804)7月に日本を発ちました。

9月には明州に到着したとされ、最澄は中国の天台宗の僧侶である湛然の弟子・道邃と行満から天台教学を学びます。

また僧侶の翛然から禅、密教僧であった順暁から密教を教わりました。

この頃、中国では当時最新の仏教として密教が伝えられていたため、この密教も最澄は学びます。

翌年の延暦24年(805)5月に日本に戻り、現在の神戸にある和田岬に上陸した際、日本で初めて密教教化霊場である能福護国密寺を建立しました。

7月に上洛した際、桓武天皇は病気を患っており、最澄は宮中で病気平癒を行ったとされています。

 

天台宗を開宗する

大同元年(806)最澄は天台宗を開宗し、天台宗の開祖となります。

唐で天台教学を学んでいた最澄は、密教について詳しく知らなかったため、この頃になると空海から真言、梵字、華厳の書物を借り研究していたとされ、弘仁3年(812)には弟子の泰範、円澄、光定とともに戒律や資格を授けて正統な継承者とする儀式の灌頂を空海から受けました。

翌年の1月には空海の下に弟子を送り、密教を学ばせています。

 

晩年

弘仁9年(818)、最澄は天台宗の僧侶の修行規則である「山家学生式」を定め、天台宗の僧侶は12年間、比叡山で修行することを義務付けました。

弘仁13年(822)6月4日、最澄は56歳で比叡山の中道院にて亡くなりました。

最澄が亡くなった44年後、貞観8年(866)最澄の功績を称え、清和天皇によって伝教大師という諡が与えられています。

最澄の性別

最澄によって延暦24年(805)に建立された能福寺には、唐へ渡った頃の最澄の姿が像として建てられています。

この最澄像の最澄の髪型は、唐で幼い少女たちの間で流行っていた垂練髻をしており、また唐で少女たちが着ていた漢服を身に着けています。

このことから、最澄の女性だったという説がありますが、女性であるという明確な史料はないため、現時点では最澄は男性とされています。

 

空海と最澄の違い

最澄は天台宗の開祖となった人物でしたが、空海は中国から真言密教を伝えた人物です。

2人はともに桓武天皇に命じられ唐へと向かいましたが、最澄は天台教学を主に学び、空海は当時、唐に伝えられていた最先端の仏教である密教を学びました。

唐へ送られた当時、最澄は天皇から認められた僧侶でしたが、空海は無名の学生扱いでした。

この時、最澄も順暁から密教を教わっていたとされています。

密教を学んだ空海は最澄よりも1年、遅く日本へ帰国します。

最澄は天台教学の他に、密教も唐で教わっていましたが、最澄は自身の学んだ密教は主流から外れた教えであったことに気づき、1年後に帰国した空海のもとで、密教の教えを受けました。

しかし、教えを受けていく中で、両者に仏教観の違いが生じ、最澄と空海の関係は決別となったとされています。

空海は最澄と同じく、亡き後延喜21年(921)に功績が称えられ醍醐天皇から弘法大師の諡が与えられています。

最澄と空海の関係性

最澄は、空海から密教の教えを学ぶために、真言、梵字、華厳などの典籍を借りていました。

また自身の弟子の泰範、円澄、光定を空海のもとに送り、密教の教えを学ばせていました。

しかし、最澄がいつものように空海から「理趣釈経」を借りようとすると、空海はこれを拒否します。

空海は唐でしっかり密教を学び、密教の教えを身に着けました。

そんな空海は実践修行によって密教の教えは身に着くと考えており、典籍だけを読んで密教の文章修行をする最澄とは考えが異なりました。

その後、空海の下で密教を学んでいる最澄の弟子たちが比叡山に戻ってきます。

しかし、弟子のうち泰範だけは空海のもとから離れようとせず、最澄は弟子の泰範に比叡山へ戻るよう催促の手紙を送りました。

この手紙に対して空海は、真言密教は天台宗よりも優れている、といった返事を返します。

この騒動以来、密教を学び教えあっていた2人の仲は悪くなり、決別となったとされています。

 

最後に

最澄の弟子であった泰範は結局、比叡山へ戻らずに空海のもとで密教を学び、空海の十大弟子の1人とされます。

泰範は最澄にとって自身の後継者として期待していたほどの弟子であったので、空海と決別してもなお、泰範が比叡山へと戻ってくることを期待していたとされています。

最澄にとって、愛弟子の泰範が離れることは非常に心苦しいことだったのでしょう。