坂本龍馬の子孫と家系図を調査!現在は北海道にいる?

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坂本龍馬は志半ばで暗殺されてしまいましたが、次の夢として蝦夷地(北海道)へ渡る計画を立て、準備していました。

なぜ、まったく縁のない蝦夷地へ渡りたかったのでしょうか、それにはいろいろと事情があり、龍馬が考えていた次の未来が描かれていたのです。

結局暗殺されてしまい龍馬は蝦夷の地を踏むことはできませんでしたが、その思いは引き継がれ、子孫が蝦夷地へ渡ることとなりました。

今回は、龍馬がなぜ北海道に渡りたかったのか、龍馬の後を継いだ子孫がどのように北海道へ渡ったのか、また家系図なども参照しながら説明していきたいと思います。

坂本龍馬と北海道

龍馬、蝦夷地への夢

坂本龍馬には蝦夷地移住の夢があり、暗殺までに何度も蝦夷地を目指す計画を立てていました。

大政奉還後日本統一が果たされたら、日本海の天然資源の流通と海援隊として世界を相手に貿易をすること、浪人や勤王志士の残党などの行き場として、国防を兼ねて蝦夷地開拓することを生涯の使命として考えていたのです。

 

幕府や各藩が蝦夷地を調査

1700年代に入り、蝦夷地にロシアが南下政策を進め、幕府は千島・樺太を含む蝦夷地を直轄地とするため、大規模な巡察隊を派遣します。

当然、土佐藩も蝦夷地に関心を示し、安政4年(1857)には、藩主・山内容堂の命を受け、手島八郎らが当時の箱館を視察しました。

この事から、土佐藩士だった龍馬も蝦夷地の存在を知り、蝦夷地に関して興味を持ち、開拓と防衛の夢を膨らませていったと考えられます。

 

龍馬蝦夷地へ向けての幾多の挑戦

【第1回目】黒龍丸

龍馬の最初の蝦夷地開拓の取組は、元治元年(1864)に京都・摂津の浪人を幕艦「黒龍丸」に乗せて蝦夷地に向かうというものでした。

しかし、海軍操練所の塾生が池田屋事件などに含まれていたことから、師である勝海舟に迷惑がかかることを懸念して断念します。

 

【第2回目】ワイルウェフ号

次の機会として、亀山社中創設後にワイルウェフ号での蝦夷地行きを計画するのですが、慶応2年(1866)5月2日、暴風雨によって五島塩屋崎で沈没してしまいます。

 

【第3回目】いろは丸

しかし、龍馬はあきらめることなく、大洲藩から借り受けた「いろは丸」でも試みるつもりでいましたが、慶応3年(1867)4月23日、紀州藩船「明光丸」に衝突され沈没してしまったために叶いませんでした。

 

【第4回目】大極丸

薩摩藩の保証で購入した「大極丸」で試みる予定でしたが、支払いの問題で運行できませんでした。

 

同志に蝦夷地渡来を勧める

この時期、鳥取藩士・河田左久馬(かわたさくま)に「何卒、今一度御面会仕候時ハ、よほどおもしろき事、御耳に入候と相楽ミ申候。其儀ハ彼の先年御同様、北門の方へ手初致し候事お、又、思ひ出たり。此度ハ既に北行の船も借受申候」 と、借り受けた船「いろは丸」で開拓計画に誘う手紙を書いています。

大極丸の時にも、後の海軍中将男爵・安保清康(あぼきよやす)旧姓林謙三(はやしけんぞう)に、「されば此大極丸の一条ヘチャモクレ」、「私シ汗顔の次第なり」などと、開拓計画のために準備するはずだった大極丸の購入に失敗したと書き記してあります。

 

妻・お龍にアイヌ語の本を渡す

また、妻のお龍にも蝦夷地に移住した時の為にアイヌ語を話せるようにと、アイヌ語の本を渡していました。

このように、龍馬は並々ならぬ意欲で移住開拓への思いを寄せていたことがわかります。

坂本龍馬の子孫と家系図

ここからは、家系図を元に、龍馬の子孫を紹介したいと思います。波乱万丈な生涯を生きた龍馬ですが、その子孫たちはどのような人生を生きてきたのでしょうか。

 

龍馬の甥・坂本直

坂本直(さかもとなお)旧姓高松太郎(たかまつたろう)は天保13年(1842)11月、龍馬の姉の子として生まれたため、龍馬の甥ということになります。

直は土佐勤王党に加わり奔走していましたが、文久3年1月、龍馬に誘われて海舟の門下生となり、龍馬と共に行動し、亀山社中や海援隊の中心人物の1人として活躍することとなります。

 

龍馬の死後、函館戦争に参加し軍功をあげる

龍馬の死後、直は慶応4年に蝦夷地経営に関する建白書を新政府に提出、五稜郭に置かれた箱館裁判所権判事となり函館戦争の際は、新政府軍の一員としてこの戦いに加わり、軍功をあげて金一千両と刀剣一口を賜りました。

 

免職後、宮内省へ

その後、新政府は蝦夷地を北海道と改めて本格的な開拓に乗り出し、直も再度箱館府に勤務しますが、なぜかすぐに免職となっています。

明治4年、直は朝廷の命により坂本龍馬の跡目を相続、正式に坂本直と改名し、永世十五人扶持を賜り宮内省へ出仕しました。

 

キリスト教信者として生きる

以後、東京府典事、宮内省雑掌、舎人などを歴任しますがキリシタンの疑いで免職となり、直は高知に戻って弟・直寛の家に同居し、晩年は高知教会の熱心な信者となって明治31年11月に病没します。

翌年、直の妻・留が息子直衛を連れて実弟・坂本直寛を頼り、北海道・浦臼に移住しました。

 

坂本直の実子・直衛

坂本直衛(さかもとなおえ)は、父の直が養子として坂本家を継いでいるので龍馬とは義理ですが、祖父と孫の関係なので、直系ということになります。

直衛は 太平洋上で海難事故に遭い、38歳で亡くなりました。また独身であったために龍馬の直系は直衛で途絶える事となりました。

 

龍馬の甥・坂本直寛

坂本直寛(さかもとなおひろ)は嘉永6年(1853)10月生まれ、坂本直の実弟で龍馬の甥です。龍馬の兄である権平の養子に入り坂本家五代当主となりました。

 

自由民権運動とキリスト教洗礼

自由民権派の政治家として活躍、高知県会議員に当選して名を直寛に改名し、高知教会で洗礼を受けキリスト教徒になります。

 

神の国創設を目指して北海道へ

藩閥政治に強く抵抗し、明治20年には保安条例に抵触したとして2年間投獄され、投獄中に拓殖事業を思い立った直寛は同志と共に合資会社北光社を設立して初代社長に就任し、北見の開拓に着手しました。

直寛は北光社による北海道開拓移民募集に応募した移民団を出向かえた後、直寛自身も一旦高知へ帰り、家族と共に北海道の浦臼へ移住したのです。

 

農業・酪農開拓と牧師としての生涯

その後直寛は、農業開拓を主導し空知郡・浦臼にある「聖園農場」を経営、農業開拓・聖職者として理想の実現を目指し牧師として人々に敬われながら、明治44年9月、胃癌の為、札幌で生涯を全うします。直寛、享年59歳でした。

 

坂本直行

坂本直行(さかもとなおゆき)は坂本家8代目当主。直行は素朴で大胆なタッチで知られる山岳画家として有名で名前を音読みで読み「チョッコウ」さんと呼ばれて親しまれていました。

直行は、明治39年(1906)7月、直寛の長女と婿養子である彌太郎の次男として釧路に生まれます。

 

北海道の大自然に魅入られ画業を生業とする

大学農学部に入学し北大山岳部に入部、北海道内の山々を精力的に歩きました。

直行は卒業後、東京の園芸会社に就職しますが2年後に退社して札幌に戻ります。

その後、広尾村字下野塚の原野に入植し、酪農と農業に従事するかたわら山へ行きスケッチを続けて、彫刻家、峰孝の勧めで初めて個展を開催します。

以後、札幌、東京などで定期的に個展を開催し精力的に画家としての活動を続け画業に専念します。

直行は画業の傍ら執筆活動も行い、後に札幌に転居、昭和49年には文化賞を受賞しました。

 

死後も北海道地元で愛される「チョッコウ」さん

昭和57年5月に直行はすい臓がんのため札幌で亡くなります。享年75歳でした。

後に「坂本直行記念館」が河西郡中札内村に建てられ 、また身近に親しまれている作品として、北海道銘菓として有名な六花亭の紙袋の絵なども「チョッコウ」さん作であります。

 

現在の当主・坂本登氏

現在坂本家の9代目当主は、ご存命で坂本龍馬財団評議員や記念館の名誉顧問をしている、坂本登氏が引き継いでいます。

坂本家は高知から遠く離れた北海道に根を下ろし、現在も権平の血筋ではありますが、家系図を見ても登氏以外に多くの子孫の方が存命で活躍しているようです。