薩英戦争とは?海外の反応やきっかけ、勝敗結果などを詳しく解説!

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「薩英戦争」それは当時「太陽の沈まぬ国」と言われるほどの領土を支配し、世界最強の国に君臨していた大英帝国と呼ばれたイギリス(英国)と、日本の一地方政権でしかない現在の鹿児島県・宮崎県南西部を領有していた薩摩藩との戦争です。

日本の歴史の中で明治維新の中心的存在である薩摩藩ですが、薩英戦争当時は他藩に一目置かれる藩ではありましたが、外様大名でしかありません。

そんな一地方政権である薩摩藩がなぜ、世界最強とも言われたイギリス艦隊を迎え撃ち戦闘を繰り広げることとなったのでしょうか? 

日本史の中でもあまりにも有名な薩英戦争ですが、戦争に突入してしまったきっかけや勝敗結果、そしてイギリスをはじめ海外の反応はどうだったのかなど、興味のある所です。

ではさっそく、薩英戦争の原因と結果などをわかりやすく解説していこうと思います。

薩英戦争が起こったきっかけは「生麦事件」?

薩英戦争を語る上ではずせない有名な事件があります。それは「生麦事件」です。

1862年9月14日、薩摩藩主だった島津久光の大名行列が江戸から薩摩への帰途の途中、前方から現れた外国人4人が行列をかき乱したことにより、彼らが斬り捨てられるという生麦事件が起きました。

この事件が、イギリスと日本の間に大きな波紋を起こすことになります。

当時の日本はアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダと「安政の五ヶ国条約」を結んでおり、この条約にはかなり日本には不利な内容が盛り込まれていました。そのなかには「治外法権」も含まれていて外国人が日本国内で罪を犯しても日本では裁くことができないようになっていました。

つまり、いくら無礼だからと言っても勝手には裁けないのです。しかしこの生麦事件では、日本の常識として、その場で外国人を成敗しています。

これが外国に通用するはずがなく、この事件がきっかけとなりイギリスは条約上正式に謝罪と賠償を求めてくることになります。海外の反応としては当然の事です。

条約は国と国との約束ですが、当時の大英帝国のメンツもあり、幕府に謝罪と賠償を求めるのは当たり前で、幕府と薩摩藩に当時者の死刑と直接謝罪・賠償を求めたのです。

幕府からは謝罪と賠償を得る事ができましたが、薩摩藩からは謝罪もありませんし、賠償も払いません。

これを不服としたイギリスは艦隊を率いて薩摩に乗り込みます。そこで、薩摩藩船を拿捕するのです。薩摩藩は拿捕に対して砲撃。これによって大英帝国と薩摩藩の「薩英戦争」が始まったのです。

 

薩英戦争の内容と勝敗結果

戦闘は3日間繰り広げられました。まずは、イギリス艦隊の薩摩蒸気船の拘禁、拿捕から始まります。これに対して盗賊行為だとして薩摩藩は反撃にでます。

イギリスの7隻の艦隊は薩摩藩の天保山砲台をはじめ各砲台を次々と砲撃し、拿捕していた蒸気船も砲撃放火して沈没させます。

しかし、「同じ人間がやれて出来ぬことはない」と自前で大砲を作ってしまうほどの薩摩藩。台風接近の悪天候も追い風になり反撃に出ます。

旗艦ユーリアラスにおいては艦長、副艦長を死亡させ、ほかの戦艦にも砲撃を命中させたり、座礁させたりと結局、イギリス戦隊の被害は63名の死傷者をだすほどでした。

薩摩藩もイギリス艦隊のロケット砲などで城下の10分の1が焼失する被害を受けます。しかし驚くことに、イギリス艦隊の死傷者にくらべ死傷者は19名ほどと圧倒的に少なかったのです。

 

勝敗結果は引き分け?

思いのほかの甚大な被害で撤退をよぎなくされたイギリス艦隊。

結果的には、一地方政権である薩摩藩が、アヘン戦争において中国でもかなわなかった大英帝国の最強艦隊を退けることに成功しました。

しかし、イギリスは幕府から女王への謝罪と莫大な賠償を得ている事と、名目上は遺族への見舞金として佐土原藩名義で薩摩藩から受け取る形になっていたため、そういう意味では戦争から撤退はしましたが、負けたとは言えませんでした。

一方の薩摩藩もイギリスに見舞金を出したものも、それは幕府からの借用であり、死刑を迫られていた犯人も逃走中ということで差し出さず、興和のテーブルでも一歩も引かなかったため、薩摩藩も負けてはいませんでした。

結局勝敗としては、お互いに勝ってもいないけれど負けてもいないという玉虫色の決着となりました。

 

薩英戦争に対する海外の反応

この薩英戦争の結果は意外な方向に向かいます。昨日の敵は今日の友とばかりに、この薩英戦争をきっかけにイギリスと薩摩藩は急速に距離を縮めていったのです。

交渉の過程で戦艦を購入することにもなり、2年後には行使が訪問、通訳官と友情が芽生えたりとイギリスと薩摩間で行き来がはじまりました。留学生の派遣や現在もイギリスではおなじみの温州ミカン「SATUMA」を送ったりと「紳士の国」と「武士の心意気」で良好な関係を構築していくことになります。

この背景にはいろいろな要素が盛り込まれていて、1つはイギリスが薩摩へした攻撃に対する非難が大きかったようです。

海外の反応として当時のニューヨーク・タイムズ紙も『この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。』とし、さらに、『西欧が戦争によって日本に汚い条約に従わせようとするのはうまくいかないだろう』と評していることから、罪のない民間人を巻き込み、城下を焼き払ってしまったことはイギリス人の意図したことではなかったということです。

こういった国内世論の圧力もあり、再度の報復も行われませんでした。

そして、薩摩の考えも変わりました。まだまだ攘夷派の武士も多かった薩摩ですが、艦隊のすさまじい軍事力を目の当たりにし、攘夷が不可能だという考えに開眼したのです。両者いろいろな感情や思惑が絡み合い「お互いやるじゃないか!」と尊敬しあったのですね。

薩英戦争は、最終的にお互いが歩み寄り、倒幕への勢いが増すキッカケとなった戦争だったのです。