日本における士農工商とは、江戸時代の職業に基づいて作られた身分制度です。
士農工商は「武士」、「農民」、「職人」、「商人」を指し、それらを合わせ四民と呼ばれています。
士農工商の他には「えた」、「ひにん」という身分がありました。
しかし、現在使用されいる教科書には士農工商という言葉は載せられていません。
そんな士農工商や「えた・ひにん」の意味や、人口に対する士農工商の割合、教科書に載らなくなった理由について解説します。
中国から始まった士農工商
士農工商という言葉はもともと、中国で使用されていた言葉です。
紀元前1000年頃の中国の文献に登場した士農工商という言葉は「士農工商、四民に業あり」と記され、あらゆる職業の民、すべての民と意味される言葉でした。
日本において士農工商とは武士、農民、職人、商人を指していましたが、中国では士を官吏や貴族を指す言葉として使用されていました。
奈良時代、日本にもたらされる
中国で誕生した士農工商という概念は奈良時代頃までにはに日本にもたらされました。
もともと中国で貴族や官吏を指していた士農工商の「士」がいつ武士を指す言葉となったのかは明確には分かっていませんが、遅くとも17世紀半ばまでには武士を指すようになっていたとされています。
身分の高い武士
戦国時代後期以前、日本では徒士や足軽の多くが武装した農民でした。
そのため「士」と「農」の違いは非常に曖昧なものであったとされています。
しかし、天正9年(1582年)に始まった豊臣秀吉による太閤検地や、天正16年(1588年)に行われた刀狩によって、「百姓」と「武士」がはっきりと分離されるようになり、以降「百姓」「武士」といった職業は固定化されるようになります。
このような武士階級とそれ以外の階級の身分を分けた兵農分離政策は江戸時代にはいると教化されるようになり、職業は代々、受け継がれていく世襲制となりました。
また「武士」は他の三民(農民、職人、商人)よりも高い身分に置かれ政治を行うことのできる階級として指定されるようになり、苗字を公称すること、武具等を身に着けること、百姓や町人を殺害することが許された苗字帯刀や、殺人を行っても許されるといった切捨御免など特権が認められるようになりました。
職業別に分けられたものではなかった
このように、士農工商は本来持つ職業概念からかけ離れることとなり、実際には「士」(武士)を高い身分におき、武士以外の身分は農村に住む「百姓」、城下町に住む「町人」と分けられ、職業ではなく住む場所によって身分は分けられていました。
そのため農村に住んでいた職人や商人も実際には「百姓」として分けられていたとされています。
「えた」「ひにん」の意味
実際は住んでいた場所で身分が分けられていたとされる士農工商ですが、江戸時代には士農工商の枠から外れた「えた」「ひにん」と呼ばれる人々がいました。
「えた」とされる身分の人々は死んだ馬の処理や獣皮の加工、革製品の製造販売、また刑吏・捕吏・番太・山番・水番などの下級官僚的な仕事など穢れの多い仕事をしていたとされています。
「ひにん」とされる身分の人々は芸能に従事、また村や町の警護などを行っていたとされています。
「穢れ」とは、死や病気、犯罪など血を伴うような出来事のことをさし、平安時代頃からこれらの出来事は「穢れ」と呼ばれていました。
この「穢れ」を正常の状態に戻すため、禊や祓などが行われてきましたが、室町時代後半頃になると禊や祓を行う人々は「河原者」や「道々の者」などの呼び方で差別を受けるようになります。
実際は百姓や町人と対等な立場であった「えた」「ひにん」
さらに江戸時代に入ると差別は強くなり、「河原者」と呼ばれた人々は士農工商から外れた「えた」や「ひにん」と呼ばれるようになりました
今では「えた」「ひにん」というと士農工商よりも身分の低い人々と思う人が多いかと思いますが、実際は百姓や町人と対等な立場であったとされています。
江戸時代の身分制度の廃止
明治時代になると、日本の近代化をはかりこれまでの江戸時代の身分制度が廃止され、新たに四民平等の政策が行われるようになりました。
その際、「士農工商」とは職業別の身分制度であると解釈され、「士農工商」は「江戸時代に身分制度を示した用語」として、以降用いられるようになり、学校教科書などに記されるようになりました。
教科書から姿を消した「士農工商」
しかし、1990年代に入り近世史の研究が進められるようになると、「江戸時代に職業別の身分制度を示した用語」として考えられていた士農工商は、実際は考えられていた概念よりもかけ離れたものであったことが分かり、以降、教科書から「士農工商」という用語は載せられなくなりました。
つまり、これまで職業別に身分が分けられていたと考えられていた士農工商は実は、職業別ではなく、住んでいた場所に分けられていただけで、また「士」(武士)こそ高い身分にいたものの、「えた」「ひにん」を含めたそれ以外の身分には上下関係や支配・被支配の関係はなく全て対等な身分であったということです。
このように、「江戸時代に職業別の身分制度を示した用語」として考えられていた士農工商は実際は実際は考えられていた概念よりもかけ離れたものであったということが研究によって判明したため、教科書から姿を消すようになりました。
割合
明治維新後、明治政府によって江戸時代の身分別人口が調査されました。
全国において「士」すなわち武士であった支配階級は6.4%、農工商の平民が90.6%、「えた」「ひにん」1.7%とされ、農工商の平民90.6%のうち、8割が農業、1割が商工の割合であったということが分かっています。