有名な「生類憐みの令」は江戸幕府5代将軍・徳川綱吉によって発令された動物愛護法です。
学校での日本史の授業でこの「生類憐みの令」は世継ぎに恵まれなかった徳川綱吉が世継ぎ誕生の願掛けとして発令し、徳川綱吉が戌年生まれであったため犬を過剰に保護したと習った方が多いのではないでしょうか。
しかし、近年の研究で「生類憐みの令」は時代背景などを考慮し、その歴史を見直されてきました。
そんな「生類憐みの令」の事実、原文を基に内容や意味、蚊を殺し流罪となった武士について解説していきます。
「生類憐みの令」とは
生類憐みの令とは江戸幕府5代将軍、徳川綱吉が発令した法令です。
この法令は徳川綱吉が生命を憐れむことを趣旨とし、傷病人や捨て子、動物などの保護を目的とした数々の法令を1つの総称にしたものとされます。
この政策が始まった明確な時期は分かっていませんが、「将軍御成りの際に道筋に犬猫が出ても苦しからず」という法令がなされた貞享2年(1685)2月が「生類憐みの令」の始まりとされています。
「生類憐みの令」が発布された理由
この法令が発布された理由は、徳川綱吉の世継ぎ誕生の願掛けのためと言われています。
五代将軍・徳川綱吉は側室との間に生まれた徳川徳松がいましたが、5歳という若さで亡くなりました。
その後、徳川綱吉には世継ぎに恵まれず、そんな徳川綱吉に母・桂昌院が帰依していた隆光僧正が「生類憐みの令」の発布を進めます。
その際、世継ぎに恵まれないのは前世で殺生をした報いであり、綱吉は戌年生まれであることから、特に犬を大切にすべしと助言され、「生類憐みの令」では特に犬の保護に関する法令が多く作成されました。
そのため徳川綱吉は「犬公方」と呼ばれた、というのが一般的な「生類憐みの令」の認識ではないでしょうか。
しかし、この「生類憐みの令」は近年の研究において時代背景などもふまえ見直されつつあります。
隆光僧正が助言し発布に至ったとされる「生類憐みの令」の意外な事実とはどのようなものなのでしょうか。
「生類憐みの令」の事実
これまで徳川綱吉が発布した「生類憐みの令」は隆光僧正の助言によって政策されたとされていますが、近年の研究において徳川綱吉が「生類憐みの令」の発布に至った事実として江戸のモラル向上、社会福祉のためという新たな事実が判明されました。
江戸のモラル向上、社会福祉のための「生類憐みの令」
この政策は、貞享元年(1684)、堀田正俊が若年寄・稲葉正休に刺殺されるといった事件の翌年以降に発令されたとされています。
この「生類憐みの令」が発令された江戸時代初期は、徳川幕府による幕藩体制の確立によって戦は減ったものの、戦国時代による社会の動乱や殺伐とした雰囲気は未だ残されたままの時代でした。
この戦国時代から受け継いだ殺伐とした雰囲気は、武士だけではなく庶民にまで浸透しており、町民や農民同士の喧嘩、放火や辻斬り、また捨て子、病人や病馬の放棄などが横行されます。
さらに江戸という大都市においては、残滓が野良犬の餌となり野良犬の増加に繋がり、そこから野良犬の虐待や殺害が増え、モラルの低下、衛生面などから江戸幕府としてはこのような問題を放置するわけにはいかない状況がありました。
徳川綱吉は、儒学を重んじ、徳を重んずる文治政治を積極的に推進してきた人物です。
文治国家を目指す徳川綱吉は、経書の討論や、四書や易経の講義、幕府直轄の学問所を作るなどして、学問を普及させ江戸のモラル向上に努めますが、なかなか改善には至りませんでした。
そこで生命を憐れむことを趣旨とした「生類憐みの令」の発布に至ったという新たな事実が判明されました。
「生類憐みの令」の内容
「生類憐みの令」は徳川綱吉が発令し、徳川綱吉の死後まもなくこの法令が廃止されたとされています。この間「生類憐みの令」の政策は約24年間続き、135回もの法令がなされました。
「生類憐みの令」の法令のいくつかを原文とともに紹介していきます。
犬に関しての法令
法令1
法令2
このように、「生類憐みの令」の中でも犬に関しての法令が多く、このことから「犬公方」と呼ばれるようになります。
捨て子に関する法令
捨て子はただ役所に届けるのではなく、周りの大人たちに子供を保護する道徳心を身につけてほしいといった意味が込められているのではないでしょうか。
このように「生類憐みの令」では動物や虫だけではなく捨て子や病人といった社会的弱者も保護の対象となりました。
一般的には「生類憐みの令」は極端に動物を保護し、江戸の庶民を混乱に追い込み、法令に違反したものは罰せられるといった徳川綱吉の悪政が強調されていますが、社会的弱者を救済し人々に道徳心を持たせるためを目的とした社会福祉政策の一環であったことも事実です。
極端な動物保護となる
徳川綱吉は捨て子や犬、猫などではなく、貝や虫までも保護対象とします。
社会福祉、モラル向上を目的とした「生類憐みの令」でしたが、法令に違反するものが絶えなかったため、より細かく厳しい規則が設けられてきました。
そして極端な保護活動となり武士や庶民の混乱に繋がったとされています。
流罪となった伊東淡路守基祐
より規則の厳しくなった「生類憐みの令」は虫である蚊までも保護対象となります。伊東淡路守基祐という武士はこの「生類憐みの令」を破り、流罪となりました。
蚊を殺しただけで流罪となるのは信じがたい出来事ですが、事実なのでしょうか。史料をもとに解説していきます。
徳川綱吉は「又淡路守がほうへ蚊ついつく申候を、おもわずしらず手にてうち殺し申し候」と淡路守がおもわず蚊を殺してしまったことを記録しました。
また「 国史大系 」第42巻には「小姓伊東淡路守基祐奉職無状にて。南部遠江守直政にあづけらる。」と記載され、つまり蚊を殺した伊東淡路守基祐という武士は流罪となったことが分かります。
これらの資料から伊東淡路守基祐という武士は蚊を殺したことによって流罪となった事実が見えてきました。
また伊東淡路守基祐が蚊を殺したことを密告した武士も、なぜ蚊を殺すことを止めなかったのかと、連帯責任として閉門処分を受けたとされています。
さいごに
徳川綱吉の発令した「生類憐みの令」は近年の研究においてモラル向上、社会福祉を目的とし発布されたという事実があきらかにされました。
この法令は発布された当初よりも規則の厳しい法令となりますが、戦国時代の動乱の後、未だ殺伐とした雰囲気を持つ江戸の背景を知ると、「生類憐みの令」は当時の人々の倫理観を正すという面において、一定の効果は上げたと言えるのではないでしょうか。
徳川綱吉は悪政政治をしてきた人物と認識されることが多いですが、このように新たな事実が判明されることによって彼の行ってきた政治は一概に悪政とは言えないのでは、と考えさせられるのではないでしょうか。