ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(以下スターリンと表記)は、1991年に崩壊したソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)の初代最高指導者・レーニンのあとを継いでソビエト共産党による国家支配を確立させ、冷戦時代にアメリカと対立した超大国ソビエト連邦を作り上げた人物です。
現在のロシア連邦でも粛清と追放の恐怖政治を行った暴君、ドイツの侵略から祖国を守った英雄と、評価の別れるスターリンとはどのような人物なのでしょうか?
スターリンの生涯を辿りながら、彼の功罪を検証してみました。
スターリンの誕生から革命家へ
1878年12月18日、ロシア帝国グルジア、ゴア市で靴職人の父と農奴階級出身の母の間に産まれました。
父親は靴職人を継がせたがりましたが、スターリンはグルジア正教会の推薦で初等神学校へ進学しました。
勉学に励み優等生として認められていましたが、マルクス主義に傾倒してからは神の存在に疑問を抱き、規律違反や反抗的態度、禁止書物であるヴィクトル・ユゴーの著書の所持などで注意や処罰を受けるようになり、1899年に神学校を退校しました。
中央気象台の局員として働き出したスターリンは、ロシア社会民主労働党に参加、ストライキを指導したり示威活動でスピーチするなどで頭角を表すと、オフラーナ(ロシア帝国内務省警察部警備局、いわゆる秘密警察)に目をつけられます。
1901年4月3日には労働党指導者の一斉取り締まりを受けますがこれを逃れ、地に潜伏し活動を続けます。
レーニンへの支持と武装、非合法闘争
バトゥミの精油所でのストライキ指導などで逮捕、シベリア追放処分を受けたスターリンは労働党レーニン派のボリシェヴィキに参加、労働党の委員にも選出されました。
1904年1月、シベリアを逃亡したレーニンは、ボリシェヴィキと対立する労働党ユーリー・マルトフ派のメンシェヴィキを弱体化するための陰謀や誹謗中傷宣伝を行い、この活動がレーニンの目に留まることになりました。
1904年2月に勃発した日露戦争はロシアの敗北に終わり、経済は停滞し国内は大きな不安におおわれます。
翌1905年1月22日、首都サンクトペテルブルクでの血の日曜日事件(軍によるデモ労働者への発砲事件)によってロシア各地で農民、労働者が武装蜂起します。
スターリンは、ボリシェヴィキ党員による武装組織を指揮、強奪や窃盗、裕福層への強請などで資金を集め続け、コサック軍や警官隊との戦闘を継続します。
ボリシェヴィキ内での実績が認められたスターリンは、1906年1月7日フィンランドで直接レーニンと会い、その実力が認められます。
ロシア革命前夜、スターリンの台頭
1906年7月28日、トビリシで知り合ったエカテリーナ・スワニーゼと結婚し翌年子供も授かりますが、エカテリーナは産後チフスに感染し死亡、スターリンはエカテリーナの死を振り払う様に革命への闘志を燃やします。
ロシア社会民主労働党大会にはレーニンの側近として参加し、その地位を確立していきますが、当然その行動はオフラーナの目に留まります。
ボリシェヴィキの活動資金を非合法(銀行強盗、偽金造り、ゆすりなど)に手に入れていたスターリンは逮捕されてシベリアへ流刑になりますが、逃亡、しかしまた逮捕され流刑を繰り返します。
1912年1月、レーニンはロシア社会民主労働党から分離したボリシェヴィキ党(のちのソビエト連邦共産党)を創立し、スターリンは党の中央委員に選出されます。
スターリンは4月には党の機関紙「ズヴェズダ」を日刊紙「プラウダ」に変更、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの調停に腐心しますが、この間にも逮捕、流刑されています。
鋼鉄の人スターリン誕生
1913年からスターリンは当局によって流刑となっていて、1916年の徴兵にも落第して1917年までシベリアの数ヵ所で暮らしていました。
ただ1913年に発表した論文『マルクス主義と民族問題』ではじめて「K.スターリン(鋼鉄の人)」の筆名を使用して、この後はこの名を好んで使うようになります。
1917年の二月革命によって流刑から解放されたスターリンは、一旦は臨時政府のアレクサンドル・ケレンスキーを支持しますが、追放から戻ったレーニンが臨時政府打倒を発表するとスターリンもこれに同意し政府の打倒を要求します。
しかし、ケレンスキー臨時政府はレーニンらのボリシェヴィキを攻撃、本拠を包囲します。
レーニンの逮捕と処刑を怖れたスターリンは、レーニンをフィンランドへ脱出させ自身はボリシェヴィキの実質的No.1となりました。
ロシア革命
1917年ケレンスキーと軍の最高司令官コルニーロフとの対立が表面化すると、レーニンはこれを好機とみてクーデターを画策、ペトログラード(サンクトペテルブルク)を占拠し、ケレンスキー政府の閣僚を逮捕しました。
レーニン率いるボリシェヴィキが人民委員会議を組織すると、スターリンは非ロシア系市民の支持を得るために民族問題人民委員に任命されます。
またスターリンは、ペトログラード占領後にレーニンの赤軍と反ボリシェヴィキの白軍との内戦が勃発すると、ソ連共産党政治局員に昇格、その後軍部に足場を築くと共和国軍事革命会議長へと昇進します。
スターリンは敵対し、信頼できない人物は反革命分子として処刑を命じ、前線に派遣されると脱走兵や反逆者は公然と処刑していきました。
しかし軍事的才能のなかったスターリンはロシア内戦での軍事作戦の失敗をトロツキーらに指摘され軍法委員会を辞任しました。
レーニンの後継者の地位を確立
軍事的才能には恵まれなかったスターリンですが、事務処理能力は他の誰にも負けないと自負していました。
スターリンはその事務処理能力を最大限にいかして共産党政治局内での人事権を握り、自分の腹心を要職に就け議会議事録の発言から政敵の弱味を握るなど、徐々に自分の地位を確立していきます。
レーニンは1918年の自身の暗殺未遂事件後はトロツキーらの党派に対抗するためにスターリンにソビエト連邦共産党書記長の地位を与え自分の支持者を要職に就けます。
しかし、1922年にレーニンが脳梗塞で倒れるとスターリンは一挙にその野心を剥き出しにしてレーニンと対立、病床のレーニンはスターリンを書記長から解任しようとしますが、1923年3月に脳卒中の発作を起こし、からだの自由が全くきかなくなってしまいました。
スターリンは党内最大のライバルであるトロツキーを蹴落とすためにセルゲイ・カーメネフ、グリゴリー・ジノヴィエフら共産党有力者と手を組み、着々とレーニンの後継者の地位を固めて行きます。
スターリン政権誕生
1924年1月21日、ソ連最高指導者であったレーニンが死去、スターリンは葬儀委員長となりますが、レーニンが残したスターリンの弱点や欠点を書き綴った遺書が残っており、その中には書記長解任も要求されていました。
レーニンの葬儀では公表されなかった遺書が5月の共産党党大会で朗読される予定でしたが、スターリンは自身の反省と中央委員会への圧力によってこれを阻止します。
また政敵であるトロツキーや同盟者であったカーメネフらの評価を下げる事実を指摘し1927年11月にトロツキー、カーメネフ、12月にはジノヴィエフも共産党中央委員会から追放することに成功します。
スターリンは貧民階級の味方を標榜することによって人気を得ることに成功し、迅速な工業化と集団農業を促進し、ソ連共産党の最高指導者の地位を確実なものにして行きます。
そしてスターリンは自身の立場を決定的なものにするためにNKVD(内務人民委員部・秘密警察、諜報活動などを統括していた機関)の権力を増大させ、世界中に諜報網張り巡らしました。
スターリンによる恐怖政治と大粛清
スターリンは自身の権力欲と顕示欲を達成するために、自身の立場を脅かしそうな人物の排除を開始します。
民衆にも中央委員会にも人気が高かったセルゲイ・キーロフ政治局員を暗殺させたとの説に始まり、1934年には共産党中央委員及び委員候補98人を銃殺、党員1,000人以上を処刑しました。
937年にはメキシコに亡命していたトロツキーの暗殺(スターリンの支持と言われている)をはじめとして、ソ連公文書では35万人以上、翌1938年には32万人以上が処刑され、モンゴル共和国でも数万人が日本のスパイのレッテルを張られて処刑、他にもドイツやハンガリー、日本の共産党員も数多く処刑されました。
その後も反革命活動の禁止を記載した法律を適用し、スターリンの地位を脅かす人物はほぼ全て排除され、スターリンはソ連共産党中央政治局最高責任者の座に君臨することとなります。
スターリン憲法
スターリンは1936年、人民民主主義の理念が提唱されたソビエト社会主義共和国連邦憲法、いわゆるスターリン憲法を制定しました。
憲法の規定では、満18歳以上の国民全てに選挙権が与えられ、普通、平等、直接、秘密選挙をうたい民族の平等、宗教の自由も認められていました。
しかし実際はソ連共産党の一党独裁制であり、選挙にも共産党が介入、もちろん宗教の自由も民族の平等も守られることはありませんでした。
スターリンはこの憲法を対外的な宣伝にのみ利用するために制定したのであり、憲法の主旨とスターリンの独裁政治方針は相容れないものでした。
ナチスドイツのソビエト侵攻
1939年8月23日、不倶戴天の敵と思われていたナチスドイツのヒトラーとソ連共産主義のスターリンが独ソ不可侵条約を締結、ソビエトは9月にはポーランドへ侵攻、1940年6月にはバルト三国を併合し東ヨーロッパのロシア化を進めます。
ただ、1940年11月頃にヒトラーはソ連侵攻を真剣に検討し始めていましたが、スターリンはドイツがソ連に侵攻することはないと信じていたのか、日独伊ソ四国同盟をドイツに提案するなど、ヒトラーを信じきっていたようです。
しかし1941年6月22日ナチスドイツは独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻(バルバロッサ作戦)を開始します。
スターリンは各所の情報からドイツの侵攻は確実と知らされていましたが、頑なにこれを信じようとせず、ソ連の対ドイツ戦は完全に立ち遅れてしまいました。
独ソ戦開始当初にソ連軍は数百万の兵士を失う惨敗を喫し、モスクワ直前までドイツの侵攻を許します。
これはスターリンがソ連軍の将校を大量粛清して軍自体が相当に消耗していたこと、ソ連軍の軍備がドイツ軍より劣ったこと、そして何よりも戦争への準備不足が原因でした。
スターリングラード攻防戦
1942年6月28日から1943年2月2日、ソ連領内の工業都市スターリングラード(現ヴォルゴグラード)で行われたドイツ、イタリア、ルーマニアなどの枢軸軍とソ連軍の独ソ戦最大の激戦がスターリングラード攻防戦です。
ドイツ軍のモスクワ侵攻の戦略的重要拠点であったスターリングラードは、スターリンの名前を冠した都市であったため、攻める側も守る側も主力軍を動員し、スターリングラード市街の戦闘からその周辺一帯を巻き込む野戦へと拡大、スターリングラード60万市民が1万人まで激減し、市街地のほとんどが瓦礫と化す人類史上屈指の凄惨な戦闘でした。
初戦は枢軸軍が有利で、市街地の90%を制圧しましたが、ソ連軍がスターリングラードを包囲、反攻作戦に転じると冬の寒さと補給に窮したドイツ軍が結果的に降伏し、決着がつきました。
枢軸軍は85万以上、ソ連軍が120万以上の兵士が死傷したと言われている第二次世界大戦最大の戦闘でした。
対日参戦と飽くなき領土拡大の欲望
日ソ中立条約を結んでいたソ連と日本でしたが、1943年頃ソ連はアメリカに対して対ドイツ戦に目処が付き次第、対日戦争に参戦する旨を伝えていました。
1945年8月、アメリカの広島への原爆投下に合わせるように、ヤルタ協定を根拠に日ソ中立条約を一方的に破棄、日本に対して宣戦布告し満州への侵攻を開始しました。
8月15日に日本がポツダム宣言を受諾後もソ連は停戦を無視して攻撃を続け、南樺太や千島列島を占領多くの日本軍捕虜をシベリアに抑留し強制労働に就かせ、死に追いやることになりました。
スターリンはこれだけでは満足せず、日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に対して北海道と東北の一部の分割占領を提案(英米は即座に拒否)、またイラン北西部ではアゼルバイジャン自治共和国とクルド共和国を強引に建国しようとするなど、領土拡大に対するスターリンの欲求は底無し沼のような貪欲さでした。
西側諸国との対立、冷戦時代の到来
第二次大戦後ポーランド、ルーマニア、東ドイツなどが社会主義国家となりソ連共産主義の拡大が驚異となる中で、英米を中心とした西側諸国とソ連との関係は急激に悪化しました。
いわゆる冷戦時代の到来です。
ソ連とアメリカとの対立はヨーロッパだけにとどまらず、アジアでは毛沢東率いる中国共産党が内戦に勝利して中華人民共和国が誕生、朝鮮半島にも朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が樹立、1950年には大韓民国との間に朝鮮戦争が勃発します。
アメリカを中心とする国連軍と中ソが支援する朝鮮人民軍との戦争は結局、38度線を境界線として停戦となり、現在に至っています。
この冷戦はスターリンの死後も続き、ソ連が崩壊する1989年までの44年間、世界中に緊張の糸を張り巡らせた状況を造り出したのです。
スターリンの最期
1953年3月1日、ニキータ・フルシチョフやラヴレンチー・ベリヤら共産党幹部との徹夜でのミーティング後、寝室に戻ったスターリンは脳卒中で倒れました。
暗殺を恐れていたスターリンは寝室をいくつも作り、どこで寝るかは当日決定、内側から鍵をかけると警備員の持つ予備の鍵以外では開かないシステムになっていました。
このため発見が遅れ、右半身が麻痺し昏睡様態となります。一時は持ち直しましたが、結局1953年3月5日74歳でこの世を去りました。
スターリンが多くの民衆や政敵、優秀な部下を粛清してきたため、数多くの暗殺説が存在しています。
秘密警察長官ベリヤによる毒殺説、フルシチョフらが粛清を恐れて先手を打ってスターリンを暗殺した説など、確たる証拠はないもののロシア内だけでなく、世界各地で暗殺説は今でも研究されています。
スターリンまとめ
レーニンの後を受けてソビエト社会主義共和国連邦をアメリカに対抗する国家へと発展させ、第二次世界大戦でも国民に数多くの犠牲を出しながらも戦勝国となり、冷戦時代には東側諸国のリーダーとして舵取りを行いました。
しかし、類い稀なる権力への野心と相手を葬ってものしあがる上昇志向は数多くの敵を作り、その敵を保身のために粛清する暗黒の歴史を作り出すことにもなりました。
最期はおのれの身を守るべきシステムが機能せず身を滅ぼす結果となり、その上死後60年以上経過しても未だに暗殺説が唱えられるほど、人生の闇が多い権力者のイメージが残ったままとなっています。
後継者によって功績が葬られ、その次の後継者によって復権が繰り返され、歴史上での功績も定まってはいませんが、第二次世界大戦前後には世界を動かす力を持った数少ない政治家であったことは間違いありません。
今後、ロシア近代史の研究が進み、スターリンの真の姿が見えてくることを待ちたいと思います。