杉原千畝とは?海外の反応やイスラエルとの関係、命のビザや名言について解説!

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杉原千畝は明治から昭和にかけて活躍した日本の外交官です。

第二次世界大戦の最中、ナチス・ドイツの迫害で、ポーランドなどから逃げてきた難民たちに、外務省の訓令に反しながらも、「命のビザ」と呼ばれる大量のビザを発行し約6,000人の難民を救いました。

このことから杉原千畝は「東洋のシンドラー」と呼ばれるようになります。

多くの難民の中でも、最もユダヤ人系が多かったため、昭和60年(1985)にイスラエル政府から、多くのユダヤ人を救った日本人として日本人で唯一のヤド・バシェム賞が与えられました。

そんな杉原千畝の生涯や命のビザについて、また海外の反応や、イスラエルとの関係性、名言を解説していきます。

杉原千畝の生い立ち

杉原千畝は明治33年(1900)1月1日、現在の岐阜県美濃市である岐阜県武儀郡上有知町の税務官吏であった父・好水の次男として誕生しました。

明治36年(1903)には福井県丹生郡朝日村、翌年には三重県四日市市、明治38年(1905)には岐阜県恵那郡中津町へ移り住みます。

中津町立尋常小学校に入学した杉原千畝でしたが、名古屋古渡尋常小学校へと転校となりました。

その後、旧制愛知県立第五中学に入学し卒業後、京城医学専門学校へと入学します。

父は、杉原千畝が医者になることを望んでいましたが、杉原千畝は医者を志しておらず、大正7年(1918)4月に早稲田大学高等師範部英語科に入学しました。

この大学生活の中で、杉原千畝は外務省留学生試験を知り猛勉強の末、外務省留学生試験に合格します。

 

満洲国外交部事務官となる

大正8年(1919)10月、日露協会学校(後にハルビン学院と改名)に入学します。

11月に早稲田大学を中退した杉原千畝は、外務省留学生試験に合格したため、留学生として中華民国のハルビンに留学し、ロシア語を学びました。

大正9年(1920)12月から大正11年(1922)3月まで朝鮮の駐屯である陸軍歩兵第79連隊に入隊します。

大正12年(1933)ハルビン学院を卒業すると大正13年(1924)外務省書記生に採用されます。

その後、昭和7年(1932)満洲国外交部事務官となりました。

昭和7年(1932)ハルビンの日本総領事館にいた杉原千畝は満州国の建国が宣言されると満洲国政府の外交部に出向となるも、北満洲鉄道を担当すると昭和10年(1935)に満洲国外交部を退官します。

杉原千畝はハルビン在職中、ロシア人のクラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワと結婚するも離婚、また正教会の洗礼を受け「パヴロフ・セルゲイヴィッチ」の洗礼名を与えられています。

日本政府による難民の受け入れ方針

昭和12年(1937)になると、杉原千畝はフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館となります。

もともと杉原千畝はモスクワの在ヘルシンキ日本公使館に就任予定でしたが、反革命的な白系ロシア人と交流があったことことからソ連が杉原千畝を拒絶し、杉原千畝はフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館となりました。

この頃、欧州では、ナチス・ドイツから迫害を受けた難民たちが極東へ向かっていました。

このことを懸念した、山路章ウィーン総領事は日本に難民が押し寄せたことを想定し、対策を考え、日本は、ナチス・ドイツから迫害を受けた難民を受け入れない方針を打ち出しました。

日本政府は「五相会議」において、ユダヤ人保護案を上示しながらも、裏ではユダヤ人差別を指示していたのです。

 

極東へと向かう難民たち

昭和14年(1939)8月28日、日本人の全くいないリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となります。

9月1日、ナチス・ドイツがポーランド西部に侵攻したため、第二次世界大戦が勃発しました。

9月17日になると、ソ連が独ソ不可侵条約付属秘密議定書に基づいて、ポーランド西部に侵攻を始め、翌年の6月15日になるとソビエト軍がリトアニアに進駐となります。

杉原千畝の派遣されたリトアニアには、ユダヤ教の神学校があったため、ヨーロッパ中のユダヤ教の留学生が集まっていました。

この頃になると、オランダやフランスはナチス・ドイツに占領され、またトルコ政府も難民のビザ発行を拒否するようになっていたため、難民たちはシベリア鉄道を経て極東に向かう逃げ道しか残されていませんでした。

 

通過ビザを求める難民が殺到

そんな中、昭和15年(1940)7月、ドイツに占領されたポーランドのユダヤ系難民たちがオランダ領アンティルを目的地とした通過ビザを取得するためリトアニアに逃れてきます。

難民の殺到を予想していなかった杉原千畝は数人のビザ発行なら領事の権限で発行することができましたが、それ以外の多くの難民のビザ発行は日本の了承を得無ければいけませんでした。

杉原千畝は多くの難民のビザ発行の了承を得るために日本政府へ連絡をとりましたが、日本政府は難民の受け入れを拒否していたため、ユダヤ人難民のビザ発行はしないようにと杉原千畝に忠告します。

 

命のビザの発行を行う

しかし、杉原千畝はナチス・ドイツから迫害を受けるユダヤ系難民を多く見ていたため、独断で、受給要件を満たさない難民にもビザを発行することにしました。

これに対し、日本政府は難民にビザ発行をしないよう再三注意しましたが、杉原千畝は避難民たちの写真を添え、ビザ発行の理由を記しました。

ソ連や、日本政府からリトアニアからの退去命令が出ても、杉原千畝は1か月余り寝る間も惜しみ、ビザの発行を行います。

しかし、ベルリンへの異動命令がなされると、無視することはできず同年9月5日、ベルリンへと向かいました。

杉原千畝は、ベルリンへと向かう車内でも、ビザを発行し続け、この間2,139枚のビザが発行されたとされています。

 

モスクワにおいても難民が押し寄せる

昭和16年(1941)独ソ不可侵条約を破棄したドイツがソ連を侵攻した独ソ戦が目前に迫ると、モスクワの領事館にも、ビザの発行を求める難民たちが集まります。

しかし、通過ビザを与えられた難民たちの多くはシベリア鉄道の乗車券を持っておらず、シベリア鉄道で極東まで行くことはできず、またビザ発行もできず、逃げ遅れたユダヤ人難民たちは、ナチスやソ連の強制収容所に送られ命を落としました。

日本に帰国

その後、プラハ、さらにケーニヒスベルク赴任となります。

ドイツはこのような杉原千畝の行動を、監視していたため昭和16年(1941)8月7日、ドイツ国家保安本部のラインハルト・ハイドリヒは外相リッベントロップにドイツ国においてスパイ活動をしている人物として杉原千畝の名前を挙げました。

その結果、さらに杉原千畝に対するスパイ容疑の監視は強まり、ケーニヒスベルクからの即刻退去を命じられ、ドイツの保護領になっていたチェコのプラハの日本総領事館に勤務となります。

その翌年には東プロイセンの在ケーニヒスベルク総領事館に赴任となり、ポーランド諜報機関と繋がっていた杉原千畝は、5月9日、日本政府に6月22日に独ソ戦が勃発する、またソ連側は長期戦に備え穀物の大量備蓄を始めていると、報告しています。

しかし、日本政府は日米交渉に没頭していたため、杉原千畝の情報を信じず、杉原千畝の情報は活かされることはありませんでした。

同年11月から昭和21年(1946)までルーマニアのブカレスト公使館などで務めました。

第二次世界大戦において、日本が降伏をした2日後、ブカレストの日本公使館にいた杉原千畝と家族はソ連軍に身柄を拘束されてしまいます。

翌年の昭和22年(1947)杉原千畝のその家族は、日本に帰国を果たします。

 

再開を果たす

日本に帰国した杉原千畝とその家族は横浜に居を据えました。

6月7日に岡崎勝男・外務次官から退職通告書が届いたため、外務省退官をした杉原千畝でしたが、義理の妹・菊池節子、三男・杉原晴生を亡くすなど、不運に見舞われます。

その後、連合国軍の東京PXの日本総支配人、米国貿易商会、三輝貿易、ニコライ学院の教授など務め昭和35年(1960)には川上貿易のモスクワ事務所長、昭和39年(1965)には国際交易モスクワ支店代表となります。

昭和43年(1968)杉原千畝からビザを発行され新生イスラエルの参事官となったニシュリと大使館で28年ぶりに再会します。

また昭和45年(1970)1月、杉原千畝からビザを発行されイスラエルの宗教大臣となったゾラフ・バルハフティクとエルサレムとも再会を果たしました。

 

海外の反応、杉原千畝の最期

昭和50年(1978)日本に帰国した杉原千畝でしたが、このとき、日本では杉原千畝はユダヤ人からお金を受け取り、多くの難民のビザ発行をしていたので、お金には困っていないのであろう。といった中傷が多く寄せられていました。

この中傷をしていたのは旧外務省関係者で、日本に在住していたドイツ人のジャーナリスト、ゲルハルト・ダンプマンは、杉原千畝が無償で命をかけてビザを発行していたことを知っていたため、旧外務省関係者に真っ先に抗議します。

また昭和45年(1970)1月に再会を果たしたバルハフティクは、インタビューにおいて杉原千畝を非難する旧外務省関係者は杉原千畝の名誉を回復すべきだ。という言葉を残してます。

そのかいもあってか昭和58年(1983)杉原千畝はフジテレビの深夜放送に取り上げられ、昭和60年(1985)にはイスラエル政府からユダヤ難民を救った功績を称え日本人初となる「ヤド・バシェム賞」を与えられ、日本において杉原千畝の名前とその功績が知れ渡りました。

その翌年の7月31日、杉原千畝は86歳で亡くなりました。

平成24年(2012)3月22日、米国フロリダ州ボカラントン市で杉原千畝の功績を称えた式典が行われ、平成28年(2016)6月8日にはイスラエルのネタニヤ市で杉原千畝の没後30年を期に「チウネ・スギハラ通り」が名付けられました。

他にも様々な国々で杉原千畝の功績が称えられています。

 

名言

日本政府の方針を破り、難民を多く救った杉原千畝はこのような名言を残しています。

名言①
「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」
名言②
「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」
名言③
「大したことをしたわけではない。当然の事をしただけです」

 

最後に

杉原千畝は、日本政府の方針を無視し、独断で迫害を受ける多くのユダヤ系難民を救い出しました。

日本帰国後、杉原千畝は金を貰いビザを発行したとして多くの中傷を受けましたが、杉原千畝は自身の行った活動を自慢するでもなく、当たり前のことをしただけ。と無言の姿勢を貫きます。

ですが、杉原千畝の行動を称えた多くの外国人のおかげで、杉原千畝の名誉は回復されることとなり、杉原千畝の名誉ある行動は世に出ることとなりました。