1964年の東京オリンピック招致の中心人物として東奔西走、縦横無尽にその時代を駆け抜け、日本水泳を戦前には世界一の座へと導き、水泳大国日本と世界から称賛された競泳日本代表を率いた指導者として歴史に名前を刻む田畑政治(たばたまさじ)。
1984年のロサンゼルスオリンピック閉幕からわずか2週間後の8月25日、85歳でこの世を去りましたが、彼には奥様と娘さん二人、息子さん一人がいました。
田畑政治と血の繋がる子孫の人々が過去、そして現在どうされているのか調べてみました。
生まれは静岡県浜松市、造り酒屋の御曹司
田畑政治は1898年12月1日、父・田畑庄吉(たばたしょうきち)、母・田畑うら(たばたうら)の間に生まれました。
家業は浜松市成子でも有数の造り酒屋で相当な資産家だったようです。
35歳の時、酒井吉之助の娘・菊枝(きくえ)さんを妻として迎えて一男二女の子供に恵まれます。
長女・治子(はるこ)さん、次女・醇子(じゅんこ)さんに関しては資料が少なく、今現在どうしているのかはわかりません。ただ、次女の醇子さんはアメリカに留学されるなど、国際派の女性だと伝えられています。
長男となる田畑和宏さんはNHK(日本放送協会)に勤務しており、平成9年4月から2年間はNHKの業務執行に関する重要事項を審議、決定する理事に2年間従事していました。
田畑和宏さんのNHKでの活躍
田畑和宏さんはNHK理事を退任後はNHK関連企業に勤務していました。
特にNHK交響楽団理事長を勤めていた2005年(平成17年)ごろにはNHK職員による不祥事が相次ぎ、受信料不払いが響いて収入が減少したため、NHKから交響楽団への補助金が1割カットになります。
これを乗り切るために田畑理事長は収入の多様化を図るため、多くの改革を断行しました。
NHK交響楽団は日本初のプロオーケストラであった1926年設立の新交響楽団が前身で、ラジオ番組などメディア向けに積極的に進出していたため戦後NHKの傘下に入り、名前も変更しました。
このNHK交響楽団は年間予算が30億円以上かかる日本最大の楽団で、14億円にのぼるNHKからの補助金は楽団にとっては大きな収入源です。これが1割カットになったため、楽団にとっては大きな痛手となります。
これを乗り切るために定期演奏会を訪れる会員の高齢化、減少を食い止めて会員の裾の拡大のために定期演奏会を平日から週末へと日にちを変更、夏休みに音楽教室を開いて若い世代の音楽家の育成も進めました。他にも企業からの協賛金の増額、デジタル時代への対応のために携帯電話の着信メロディ配信や演奏会のインターネット配信の事業化にも着手しました。
父・政治さんと同じように和宏さんも逆境には向かっていく性格だったようです。
血縁にはメディア関連の大物も
田畑政治の1つ年下の従兄弟に水野成夫(みずのしげお)という人物がいます。
水野は静岡中学校(現在の静岡県立静岡高等学校)から、第一高等学校(現在の東京大学教養学部、千葉大学医学部、薬学部の前身)を経て、東京帝国大学法学部を卒業した超エリートです。(一高から東京帝大は田畑政治と同じです)
水野の友人、南喜一(みなみきいち)が考えた新聞紙からインキを抜いて再生紙を作るというアイデアを陸軍軍事課長・岩畔豪雄(いわくろひでお)に持ち込み、このアイデアに出資してもらい大日本再生製紙(現在の日本製紙)を設立、これを足掛かりに経済同友会幹事、文化放送社長、日本経済団体連合会(略称・経団連)理事へと階段を登り、ニッポン放送の鹿内信隆(しかないのぶたか)とともにフジテレビジョンを設立、初代社長となります。
この後、産業経済新聞社(現在の産経新聞)を買収し、フジサンケイグループの基盤を作りました。
田畑政治の血縁は報道、放送メディアに強い
田畑政治は朝日新聞社という報道機関、息子である和宏さんはNHKという放送メディア、従兄弟の水野成夫はフジサンケイグループという報道と放送の複合メディアという共通点を持ちます。
それぞれが報道、放送メディアに進んだ理由は異なっているようですが、時の権力者と繋がることのできるメディアという業界はオリンピックという一大イベントを招致したり、運営したりする側に立ちやすいというメリットはあったようです。
田畑政治がオリンピック招致に成功したのはメディアに強い一族の血のなせる技だったのかもしれません。