高橋是清とは立憲政友会第4代総裁、第20代内閣総理大臣となった人物です。
昭和2年(1927)昭和金融恐慌が発生した際、田中義一内閣で3度目の大蔵大臣となった高橋是清は支払猶予措置(モラトリアム)や紙幣の大量印刷などの政策を行い、金融恐慌を沈静化させました。
しかし、その後インフレーションの発生が予見されていたため陸軍省所管予算の削減を図ると陸軍から恨みを買うこととなり、二・二六事件において暗殺されました。
そんな高橋是清の生涯、政策、二・二六事件や子孫、名言を解説していきます。
高橋是清の生い立ち
高橋是清は嘉永7年(1854)9月19日、江戸芝中門前町で幕府御用絵師・川村庄右衛門と、きんの子供として誕生します。
しかし生後まもなく仙台藩の足軽・高橋覚治の養子となりました。
養子となった高橋是清は横浜にあるアメリカ人の医師・ヘボンの開くヘボン塾(現在の明治学院大学)に通うようになります。
その後、慶応3年(1867)仙台藩の命令によって勝海舟の息子・小鹿とともに海外へと留学を行いました。
しかし、この留学に関して、高橋是清は横浜にいたアメリカ人のユージン・ヴァン・リードに学費や渡航費を着服させられ、また留学先の両親には年季奉公を結ばされるなどの被害に遭い、留学生活では牧童や葡萄園などで、奴隷のように扱われ、いくつかの家を転々とするなどの苦労をしましたが、英語の会話と読み書き能力を習得することができました。
明治元年(1868)高橋是清は留学先から日本に帰国します。
明治6年(1873)外交官・森有礼の勧めによって高橋是清は文部省に入省し、十等出仕となりました。
この間、英語教師も務め共立学校(現在の開成中学校・高等学校)の初代校長を務めました。
明治17年(1884)には農商務省に設置された特許局の初代局長に就任します。
明治22年(1889)になると、ペルーで銀鉱事業を行うも失敗に終わり明治25年(1892)ペルーから帰国した際、川田小一郎に勧められ日本銀行に入行します。
日露戦争では戦費調達を行う
日本銀行に入行し日銀副総裁となった高橋是清は日露戦争が起こった際は秘書・深井英五とともに戦費調達のために同盟国であったイギリスに向かいました。
しかし、イギリスの投資家たちは、日露戦争において日本の兵力ではロシアに敗戦すると予想し、また日本政府の支払い能力、日本とロシアの中立国であるイギリスが日本に軍資金を提供するのは中立違反であることを懸念しました。
それに対し、高橋是清は最期の1人となってでも戦う所存、関税収入があるため支払い能力はある、南北戦争では中立国が軍費提供を行っていた事例がある。と反論し、イギリスを納得させ戦費調達を成し遂げます。
1度目の大蔵大臣就任
その後、明治38年(1905)に貴族院議員、明治44年(1911)日銀総裁に就任します。
大正2年(1913)第1次山本内閣が発足した際、高橋是清は日本の財務責任を担う大蔵大臣に就任となりました。
同じころに、伊藤博文が結成した立憲政友会に入党します。
2度目の大蔵大臣就任
第19代内閣総理大臣に同じく立憲政友会であった原敬が就任した際も、高橋是清は大蔵大臣となりました。
内閣総理大臣就任
その後、右翼青年・中岡艮一によって原敬首相が襲撃、殺害されると、財政政策を高く評価されていた高橋是清は大正10年(1921)11月13日、第20代内閣総理大臣に就任となり、同時に立憲政友会の第4代総裁となります。
しかし、高橋是清は自身が内閣総理大臣に就任することを予想していなかったため大正11年(1922)6月12日に内閣は解散となりました。
第二次護憲運動を起こす
第23代内閣総理大臣に清浦奎吾が就任した際は、ほとんどの全閣僚が貴族院議員となったため、立憲政友会では清浦奎吾の支持、不支持を巡って内部分裂が起き、離党した床次竹二郎などによって政友本党が結成されます。
一方、清浦奎吾の不支持派であった高橋是清は政友会を率いて憲政会、革新倶楽部と手を組み護憲三派を結成し清浦内閣打倒を目的とした第二次護憲運動を起こしました。
これによって第15回衆議院議員総選挙では護憲三派が圧勝となり清浦内閣は解散となります。
3度目の大蔵大臣就任
その後、大正13年(1924)6月11日、新たに内閣総理大臣に就任したのは加藤高明です。
護憲三派に所属していた加藤高明は高橋是清を農商務相に任命しました。
高橋是清は政友会総裁を田中義一に譲り政界から引退を決意しましたが、昭和2年(1927)に昭和恐慌が起こった際、第25代内閣総理大臣の若槻内閣で組閣した田中義一に請われに大蔵大臣に就任しました。
この時、高橋是清は日銀総裁であった井上準之助と共に支払猶予措置(モラトリアム)を行い、また200円札を大量に発行するなどして金融恐慌を沈静化させます。
4度目の大蔵大臣就任
昭和6年(1931)の犬養毅が組閣した際も大蔵大臣に就任します。
この時、高橋是清は金輸出再禁止、軍事予算の増額、景気対策を目的とした時局匡救事業を行い、世界恐慌でデフレに陥っていた日本を救いました。
世界恐慌において最速でデフレから脱却したのは日本とされています。
昭和7年(1932)に五・一五事件において、首相であった犬養毅が暗殺された際は、総理大臣を臨時兼任しました。
5回目、6回目の大蔵大臣就任
その後、斎藤実が第30代内閣総理大臣に就任した際も、大蔵大臣に就任、昭和9年(1934)に岡田啓介が第31代 内閣総理大臣に就任した際も、大蔵大臣に就任しました。
二・二六事件で暗殺される
この頃になると高い確立でインフレーションが発生すると予想されていたため、高橋是清は海軍陸軍問わず一律に軍事予算の削減の縮小を図りました。
しかし、以前から陸軍の予算規模の小ささに不満を抱いていた陸軍は、この軍事予算の削減を機に高橋是清を恨むようになり、昭和11年(1936)2月26日に陸軍の青年将校らに襲撃され拳銃で撃たれた上、軍刀で刺され亡くなりました。(二・二六事件)
享年83歳であったとされています。
名言
大蔵大臣としての評価の高い高橋是清はいくつかの名言を残しました。
選挙に出馬する時に述べた言葉とされています。
大蔵大臣を6回も務めた高橋是清だからこそ、言える名言です。
高橋是清の子孫
高橋是清は川村庄右衛門と妻・きんから誕生しましたが、幼いころに高橋家に養子に出されました。
その後、高橋是清は妻・里ゆうを迎えと2人の間には2人息子が誕生しました。しかし明治17年(1884)に妻・里ゆうとは死別します。
その後、原田金左衛門の長女・しなと再婚しました。
先妻との間には、長男・高橋是賢、次男・高橋是福が、先妻又は後妻との間に娘となる和喜子が誕生しています。
長男・高橋是賢
実業家、貴族院子爵議員となった人物です。
妻は黒木為楨二女・愛子とされ、2人の間には高橋是清の孫にあたる長男・高橋賢一(北海道議会議員・農場主)と次男・高橋豊二(サッカー選手)が誕生しました。
次男・高橋是福
帝都座社長となった人物です。
高橋是福の次女・福子(孫娘)は初代内閣総理大臣伊藤博文の孫・博精に嫁ぎました。
娘・和喜子
大久保利通の八男・利賢に嫁ぎます。
2人の間に誕生した大久保利春はロッキード事件で有罪判決を受けました。
最後に
高橋是清は第20代内閣総理大臣に就任した人物でしたが、就任期間は短かったため、内閣総理大臣としてではなく6回も務めた大蔵大臣としての評価の方が高く評価されました。
世界恐慌により混乱する日本を世界最速の速さでデフレから脱出させた高橋是清は優れた政治手腕の持ち主であったことが分かります。