タマラ・ド・レンピッカとは?作品や夫など、芸術家としての自由な生涯を解説!

※当サイトは広告を含む場合がございます

5月16日はタマラ・ド・レンピッカというワルシャワ生まれの天才芸術家が生まれた日です。

レンピッカは1910年代半ばから1930年代にかけてアメリカ等で流行した「アール・デコ」という装飾美術を専門とする画家ですが、彼女の自由奔放な生き様は、多くの人を激動に巻き込み、かつ魅了しました。

そんなレンピッカの数奇な生涯について、作品や夫などを含め詳細に解説していきます。

タマラ・ド・レンピッカの生い立ち

1898年5月16日、タマラ・ド・レンピッカはロシア帝国支配下のワルシャワに生まれました。

彼女の家はポーランド系の大富豪ということもあり、その環境が影響したのか、非常に高飛車な子供として幼少期を過ごしました。

 

あの手この手で弁護士と結婚

タマラは15歳の時にスマートで美男子な弁護士、タデウシュ・ウェンピツキに恋をします。

それ自体はごく普通の思春期の少女という感じですが、ここで終わらないのがレンピッカのすごいところ。

なんと彼女は叔父のコネを使うことでタデウシュとお近づきになり、金銭で彼を釣るなどして、18歳のときに本当に結婚してしまうのです。

もともと彼女は非常に美人だったことに加え、地位と富もありましたから、それをフルに利用したという感じですね。

 

夫を銃殺刑から救う

しかし幸せな期間は長くは続かず、1917年にロシア革命が起こったことにより、夫のタデウシュが逮捕されてしまいます。

このままだと彼は銃殺刑にされてしまうということで、タマラは自ら刑務所を探し回って夫を見つけ、スウェーデン領事に協力してもらい、彼を釈放させます。

それからは夫婦でヨーロッパを転々とし、最終的にパリへ落ち着きました。

芸術に目覚め、才能を発揮する

当時のパリは第一次世界大戦に勝利したことで活気に満ち、裕福なだけでなく芸術的な面でも世界の最先端を走っていた都市でした。

そんな環境に身を置きながら、自分が持ってきていた宝石を売って生計を立てていたタマラが、アートという世界に強い憧れを抱いても何ら不思議ではありません。

彼女はアンドレ・ロートという芸術家を師事し、彼の元でネオ・キュビズムを学んだ後、当時流行していたアール・デコ運動の冷ややかさと官能さを統合させたタマラ独自の画風を確立しました。

タマラはもともと芸術面で天才的な才能を持っていたのに加え、その美貌が多くの人を魅了することになり、パリでは瞬く間に人気者となって有名な画家の仲間入りを果たしました。

彼女は着々とその名声を広げ、ついには『バルコニーのキゼット』という作品でフランスのボルドー国際美術賞の金賞を取るなど目覚ましい活躍をします。

 

両性愛が原因で夫と離婚、娘からは恨まれる

仕事の面では非常にうまくいっていたタマラでしたが、その分、家族間の関係は崩壊してしまいました。

実はタマラは両性愛者としてよく知られており、シャンソン歌手のシュジー・ソリドールと親密になり、彼女の肖像画を描くなど、様々な女性と関係を持っていました。

そんなタマラに振り回される生活に限界がきた夫・タデウシュは、彼女を捨てて離婚します。

タマラはその後、より位の高い男爵の地位を持つラウル・クフナーの愛人となり、彼の妻が亡くなった後、正式に結婚することになります。

 

娘と滅多に会わなかった?

タマラはパリにきた頃に娘・キゼットを産んでいますが、仕事に明け暮れて、娘と会うことは滅多になかったと言います。

また、1929年にはクリスマスでさえも娘と母に顔を見せず、その間アメリカ旅行をしていたため、母のマルヴィナは激怒し、タマラのデザイナー帽子を燃やしたという逸話が残っています。

マルヴィナが怒るのも無理はありませんね。

アメリカでも名声を得るが、徐々に人気が衰え引退

1939年、タマラはラウル・クフナー男爵の愛人としてアメリカのニューヨークへ移り住み、そこでも制作活動を続け、人気を博します。

しかし、第二次世界大戦が終わる頃にはタマラの人気も衰え始めてしまいます。

そんな状況を打開するために、タマラは新しい画風を追求して新作を出展しますが、好評を得られず、プライドが高いタマラは二度と作品を発表しないということでプロ画家を引退してしまいました。

夫のラウル・クフナー男爵が亡くなると、タマラは船による世界一周旅行を3度経験し、自由奔放な生き方を楽しんでいました。

 

晩年は娘と過ごす

タマラは1941年にナチス占領下のパリにいた娘・キゼットを救い出し、それ以降、キゼットは母・タマラのマネージャー兼秘書として、彼女の荒い気性に苦しめられながらも共に生活していきます。

1980年3月1日、タマラは永眠し、遺灰はポポカテペトル山に撒かれました。

タマラが亡くなる最後の3ヵ月間は、娘・キゼットが付きっきりで看病していたそうです。

一時は完全に疎遠な関係になっていた二人ですが、最後は親子としての絆を少しでも取り戻すことができたのではないでしょうか。

 

タマラの作品について

タマラが最初にその名声を博したのがパリの地でしたが、当時のパリでは抽象画が主流でした。

しかし、タマラの作品はそれと大きく異なり、キュビズムのはっきりとした印象と共に官能さを持ち合わせているという独特な画風でした。

結果としてそれがパリで人気を呼び、タマラが描く肖像画1枚に対しては200万円ほどの価値がついたそうです。

その後、ニューヨークへ移り住んでからは人気が衰えたタマラでしたが、70年代に入ると若い世代から再評価されるようになり、1973年の回顧展も大好評でした。

こうして、タマラの独特でスタイリッシュな芸術は、現代にも語り継がれるものとして確固たる地位を築いたのです。