暴れん坊将軍で有名な徳川吉宗は江戸幕府第8代将軍となった人物です。
財政再建を目指した享保元年(1716)に開始された享保の改革は日本絵図作製、人口調査、国民教育、年貢の強化、新田開発などが行われました。
そんな徳川吉宗の生涯、享保の改革、高かったとされる身長、エピソードについて解説していきます。
徳川吉宗の生い立ち
徳川吉宗は貞享元年(1684)10月21日、、徳川御三家の紀州藩2代藩主・徳川光貞の四男と浄円院から誕生しました。
幼少期は家老に育てられ、兄・次郎吉が病死すると新之助と名を変え、江戸にある紀州藩邸に移り住みます。
元禄10年(1697)徳川吉宗が14歳の時、葛野藩主となり、名を頼方に改めました。
紀州第5代藩主となる
宝永2年(1705)紀州藩第3代藩主であった長兄・綱教が亡くなると、三兄・頼職が後を継ぐも、同年、父・光貞と三兄・頼職が亡くなってしまったため、徳川吉宗は22歳で紀州第5代藩主となります。
この時、将軍の徳川綱吉から偏諱が与えられ徳川吉宗と名乗りました。
宝永3年(1706)二品親王伏見宮貞致親王の娘・真宮理子女王を正室に迎えましたが、宝永7年(1710)には、真宮理子女王は亡くなります。
宝永7年(1710)4月、紀州に入った徳川吉宗は、質素倹約を徹底して財政再建を図ります。
紀州藩主を務めていた頃に、徳川吉宗は女中との間に長男・長福丸(徳川家重)、二男・小次郎(田安宗武)が誕生しました。
8代将軍就任となる
享保元年(1716)第7代将軍・徳川家継が8歳で亡くなると徳川将軍家の血筋が絶えたことから徳川御三家の出身であった徳川吉宗が第8代将軍に任命されます。
徳川家継の叔父である徳川家出身の館林藩主・松平清武という人物がいましたが、当時、館林藩では一揆が頻繁に起こっており、また養子に送られたことで徳川家と離れていたことから、松平清武は選考対象から外されました。
歴代の将軍は、将軍に任命された際、自身の藩を廃藩とすることが多かったのですが、徳川吉宗は廃藩せず、紀州藩を存続させます。
享保の改革
8代将軍となった徳川吉宗は、財政再建を目的とした享保の改革を享保元年(1716)に始めます。
時代背景
当時、幕府の財政減となっていたのは農民から収められる年貢です。
この年貢とは米のことで、幕府の御家人たちは、この収められた米を金に換えることで給料として生活を送っていました。
しかし、飢饉などが多く発生したため年貢となる米が収穫できず、幕府の財政減に繋がることとなります。
こうしたことから、徳川吉宗は財政再建を目指すため享保の改革に取り掛かりました。
内容
享保の改革では、新田の開発や足高の制の設置、目安箱の設置、大奥の整備、医療政策などが行われます。
足し高の制の設置
当時、収入がある程度なければ役職に就くことはできませんでした。
そのようなことから優秀な人物であっても収入がないため、役職に就くことができないといったケースが多くあり、徳川吉宗は、そのような収入の低い優秀な人材に対し、収入となる米を支給し、役職に就けるといった足し高の制を設置します。
江戸町火消しの設置
火災対策のために、消防組織を作りました。
目安箱の設置
農民や庶民の社会事情などの収集のために設置されました。
この目安箱に町医者・小川笙船が江戸には貧民が多くいるため施療院を建ててほしいと要望したところ、徳川吉宗によって無料の医療施設である小石川養生所が建てられました。
洋書輸入の緩和
これまで、日本ではキリスト教の普及を恐れ、洋書の輸入が禁止されていました。
しかし、徳川吉宗は実学を重視していたため、洋書の輸入を緩和します。
この政策によって、のちに蘭学興隆となりました。
上米の制
1万石につき100石の割合で諸国の大名から幕府に収めさせ、その代わりに参勤交代の際、江戸での滞在期間を1年から半年に短縮しました。
風俗取締り
当時、近松門左衛門が活躍し人形浄瑠璃が流行っていました。
人形浄瑠璃で演じられる心中物語によって影響を受けた庶民の心中が相次ぐ社会問題となっていました。
そのような社会問題に対し、徳川吉宗は心中の禁止、また私娼や賭博を禁止します。
その他
また民政に関して公事方御定書の作成や、農業に関して定免法の制定、また経済に関して質流し禁令を行いました。
享保の改革の効果
徳川吉宗の行った享保の改革は、幕府財政の安定に繋がり高く評価されることとなりましたが、一方で年貢増徴などが農民の大きな負担となり、また財政再建や物価対策を急ぎ行ったあまり、一時しのぎとなった法令が多かったことから、一時的に幕府財政は立て直せたものの、根本的な幕府財政の立て直しには繋がりませんでした。
また年貢増徴によって農民の負担が大きくなったため、一揆や打ちこわしが増加するようになります。
徳川吉宗の晩年
延享2年(1745)9月25日、将軍を長男・家重に譲りましたが、長男・家重は将軍として不適格な人物であったため、徳川吉宗は大御所となり、実権を握り続けます。
しかし、翌年の延享3年(1746)に脳血管障害を起こし、右半身麻痺と言語障害の後遺症が残りました。
その後、寛延4年(1751)6月20日に再発性脳卒中によって68歳で亡くなります。
徳川吉宗の身長
徳川吉宗は身長180cmであったとされています。
当時の男性の身長は平均155cmであったとされ、徳川吉宗の身長はかなり高かったことが分かります。
暴れん坊将軍について
1978年から2003年にかけて放送された「暴れん坊将軍」の主人公は徳川吉宗です。
「暴れん坊将軍」は徳川吉宗が、貧乏旗本の三男坊・徳田新之助に姿を変え、町で悪さをはかる悪者を斬るといった物語です。
主人公・徳川吉宗が自ら悪者を成敗する殺陣の場面が多く、このことから「暴れん坊将軍」とされ、徳川吉宗=暴れん坊将軍というイメージが定着しました。
身長が高く大柄な男性であったとされ、享保の改革のような斬新な政治を行っていましたが、「暴れん坊将軍」のような自身で悪党を退治したというエピソードは残されておらず暴れん坊ではなかったと考えられます。
徳川吉宗のエピソード
徳川吉宗は絵画に関して非常に関心を持っていました。
絵師・狩野古信から絵の手ほどきを受け、絵画作品が何点か残されています。
また宋、元時代の中国画にも興味を持ち、南宋時代の画僧・牧谿筆の瀟湘八景図を大名から借り、鑑賞したという記録が残されました。
最後に
暴れん坊将軍で有名な徳川吉宗は、享保の改革を行った人物でした。
享保の改革は一時的に幕府の財政を立て直すことができましたが、根本的な財政難の解決には至らず、農民に大きな負担がかかったことにより、一揆や打ちこわしを引き起こす結果となりました。