鶴田義行とは?競泳や金メダル、エピソードなどその生涯を解説!

※当サイトは広告を含む場合がございます

アムステルダムオリンピックとロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲得した鶴田義行は、日本人初のオリンピック2大会連続覇者です。水泳大国日本の先駆けとなった鶴田のエピソードとその生涯を解説します。

鶴田義行とは

1903年、鹿児島県の農家に9人兄弟の次男として生まれました。17歳で鹿児島の鉄道省に就職後、志願して海軍に入った際に才能を見出され、水泳を本格的に始めました。

1928年、アムステルダムオリンピック、4年後のロサンゼルスオリンピックの2大会連続で金メダルを獲得します。

2つのオリンピックの間の1929年には京都で世界記録を樹立し、引退後は愛媛新聞に勤める傍ら、愛媛県の水泳普及に尽力しました。

 

アムステルダム大会での快挙

海軍で本格的な水泳の訓練を受けた鶴田は、1925年の明治神宮水泳大会、全日本選手権でいずれも200m平泳ぎで優勝します。

そして、1928年のアムステルダムオリンピックに出場すると、予選、準決勝と勝ち進み、世界記録保持者のエーリッヒ・ラーデマッハーを抑えて優勝しました。

その記録は、2分48秒8のオリンピック新記録で、日本人としては二人目、競泳種目では日本人初の金メダルです。

 

世界記録保持者になる

1929年、鶴田は200m平泳ぎで世界記録を樹立します。

その記録は2分45秒0で、アメリカのスペンスが破るまで614日間保持されました。

オリンピックの2大会連覇

金メダル獲得の快挙から4年後、鶴田はロサンゼルスオリンピックに補佐役として出場します。

この時、鶴田はすでに29歳になっていたため、16歳の小池禮三が優勝候補とされていました。

しかし、鶴田は小池を1秒リードして2分45秒4でまたもやオリンピック新記録で優勝します。

なお、平泳ぎで2大会連続で金メダルをとったのは鶴田と北島康介の二人だけです。

 

再び海軍へ

鶴田は、水泳を続けるために1929年ごろ明治大学専門部法科へ入学し、卒業後は南満州鉄道へ就職します。

ロサンゼルスオリンピック出場時は南満州鉄道に所属していましたが、有給休暇の取得は認められず、欠勤扱いの上、ボーナスと昇給がカットされたそうです。

その後は、名古屋市に勤め、体育主事となりましたが、第二次世界大戦が始まると、召集されて再び海軍に入りました。

引退後は地方の水泳界に貢献

戦争が終わると、鶴田は妻の出身地である愛媛県松山市に移り、亡くなるまで居住することになります。

1948年に鶴田は愛媛新聞社に入社し、翌年には愛媛新聞社主催で水泳学校を開校し泳げない子をなくす活動を始め、以後37年間で5400人の生徒を育てることになりました。

そして愛媛県体育協会、愛媛県水泳連盟理事を歴任します。

 

エピソード

遅咲きのスイマー

実は鶴田が水泳を本格的に始めたのは22歳で海軍に入ってからで、佐世保海兵団に入った際に鶴田の平泳ぎを見た艦長から水泳部に入ることを命じられたのがきっかけでした。

そのため、最初の金メダルを取った時点では、たった3年しかキャリアがありませんでした。

 

警備員を懐柔

アムステルダムオリンピックの競技三日前に鶴田は、立ち入り禁止の本番会場で練習をしようとしますが、警備員に見つかってしまいます。

鶴田は一計を案じ、4箱のタバコを買い込み、警備員に渡すようにしてみました。

警備員はぷいと横を向いて勝手にしろという仕草をしてどこかへいってしまったそうです。こうして鶴田は本番前に会場のプールを使わせてもらうことに成功しました。

 

「人生之行」

引退後、子どもたちに水泳を教えていた時に「苦しみから逃れようとすればするほど、苦しみに追われる。

苦しみにみずらから挑み、これを突破すれば、永久に楽を得られるのではないか」と言っていたそうです。