歌川広重(安藤広重)とは?東海道五十三次や猫の作品、ゴッホとの関係について解説!

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歌川広重は江戸時代に活躍した浮世絵絵師です。

安藤広重とも呼ばれていますが、この名前は本名ではなく「安藤」は本姓で「広重」は号です。

よって歌川広重が生涯「安藤広重」と自ら名乗ったことはありませんでした。

歌川広重は「東海道五十三次絵」や「名所江戸百景」を残し、また仮名垣魯文の雑誌「魯文珍報」には多くの猫の絵が掲載され、後に「百猫画譜」としてまとめられました。

そんな歌川広重の生涯や代表作品「東海道五十三次絵」、猫を描いた「百猫画譜」またゴッホとの関係性を解説していきます。

歌川広重の生い立ち

歌川広重は寛政9年(1797)江戸の八代洲河岸にあった定火消屋敷の同心である安藤源右衛門の長男として誕生しました。

火消とは江戸時代における消防組織のことで、同心とは庶務や見回りの警備などを指します。

父・安藤源右衛門は、安藤家の婿養子と迎えられた人物で元々は田中家の人間であったとされています。

歌川広重には、上に長女と次女、下に三女の姉妹がいました。

文化6年(1809)2月、歌川広重が13歳の時に母が亡くなり父・安藤源右衛門が隠居すると、父の職を継ぎ、火消同心となります。

その後、同年12月になると父・安藤源右衛門も亡くなりました。

 

歌川豊国に弟子入りする

幼少期から絵に興味を抱いていた歌川広重は、文化8年(1811)15歳の時に浮世絵絵師であった歌川豊国に弟子入りすることを決意します。

当時、歌川豊国は役者絵を中心に制作し活動を行っていた人物、この歌川豊国は師匠に、浮世絵を普及させた歌川豊春を持っていたため、非常に人気な絵画派閥でした。

そのため歌川広重は歌川豊国の門人になることを希望するも、門生満員であったため、弟子入りを断られます。

歌川豊国の門人入りを断られた歌川広重は、同じく歌川豊春の弟子であった歌川豊広に入門することとなりました。

歌川豊広に入門すると、歌川豊広から歌川広重の名前を与えられ、文政元年(1818)に「一遊斎」の号を用いて絵師としてデビューを果たします。

 

歌川広重の結婚

文政4年(1821)に同じ火消同心の仲間であった岡部弥左衛門の娘と結婚します。

文政6年(1823)には安藤家の養祖父の嫡子・仲次郎に安藤家の家督を譲りました。

嫡子・仲次郎はこの時まだ8歳であったため、歌川広重は引き続き火消同心を続けることとなります。

 

風景画に取り組む

歌川豊広に入門した歌川広重は、役者絵の制作から行いました。

その後、美人画の制作を行うようになるも、文政11年(1828)師匠・歌川豊広が亡くなると、歌川豊広の得意とした風景画の制作に取り組みます。

天保元年(1830)になると号を「一遊斎」から「一幽斎廣重」に改名し、花鳥画の制作にも取り組みました。

 

火消同心を辞め、絵画制作に集中する

天保3年 (1832)嫡子・仲次郎が17歳となったため歌川広重は、火消同心の職を嫡子・仲次郎に譲り、絵画制作に集中しました。

この時、号を「一幽斎廣重」から「一立齋」また「立斎」と改めます。

歌川広重のこれまでの生涯で師匠となったのは歌川豊広だけでしたが、文人画家であった大岡雲峰から南宗画(文人画)を学び、南宗画の制作を行っています。

代表作品「東海道五十三次絵」

天保4年(1833)歌川広重の代表作である「東海道五十三次絵」が発表されます。

この作品は、幕臣であった歌川広重が幕府の用事のため江戸から京都へ向かった際の東海道の様子を描いたとされていますが、一方で、歌川広重は東海道を歩いたことはなく、司馬江漢が描いた洋画を真似して制作されたのでは、とも推測されています。

 

幕絵の制作

その後、歌川広重は天保12年(1841)に甲府道祖神祭礼で使用される幕絵の制作を甲府国の町民から依頼され、そののために同年4月に甲府国へと向かいます。

この時の様子は「甲州日記」に記され、同年の11月に幕絵が完成すると、幕絵のみならず甲府国の町民の依頼された屏風絵や襖絵の制作も行っていたと記録されています。

 

「天童広重」の制作

幕絵の制作を終えると、嘉永(1848)頃には号「立斎」のみを用いるようになりました。

この頃、歌川広重は天童藩から絵画制作の依頼を受けます。

天童藩は当時、財政難に悩まされており、そのため、裕福な商人や農民から借金をしていました。

しかし、財政難は解決されず借金を返すことができなかったため、その代わりとして歌川広重の絵画作品が裕福な商人や農民たちに返礼されます。

この時に制作された絵画は「天童広重」と呼ばれ、遠近法を用いて200点以上にも及ぶ作品が制作されました。

短期間で大量に制作されたことから、歌川広重が1人で制作したのではなく、弟子が代作した作品も含まれているとされています。

 

歌川広重の晩年

文久年間の「江戸日本橋南之絵図」によると現在の京橋に位置する日本橋大鋸町に歌川広重の自宅があり、その後、日本橋大鋸町から近い常磐町に移り住んでいたとされています。

安政5年(1858)9月6日、歌川広重は当時江戸で流行っていたコレラに感染し、61歳で亡くなりました。

猫を描いた歌川広重

歌川広重の多くの作品の1つである「名所江戸百景」の「浅草田甫酉の町詣」には猫が描かれています。

また作家・仮名垣魯文の雑誌「魯文珍報」には、歌川広重の描いた猫の絵が「百猫画譜」として掲載されました。

 

ゴッホとの関係性

印象派画家であったゴッホは、当時ヨーロッパで流行っていた浮世絵に興味を持つと、歌川広重の作品を高く評価し、「名所江戸百景」のうちの「大はしあたけの夕立」や同じく「名所江戸百景」の「亀戸梅屋敷」などの作品を油絵で模写するようになりました。

ゴッホは浮世絵を模写することで、構図、色彩感覚、線描画法などの技法を身に着けたとされています。

実際に歌川広重とゴッホは対面したことはありませんが、このようにして繋がりを持っていました。

 

最後に

歌川広重は生涯、多くの作品を残した人物でした。

そのため、歌川広重の作品を目にした方も多いかと思います。

浮世絵がヨーロッパの画家たちに与えた影響は非常に大きく、かの有名なゴッホも歌川広重の作品を模写していたことは驚きです。