第二次世界大戦中のイギリスが最も苦しかった時、イギリスのリーダーとして国民を鼓舞し続け、その苦難の道を共に戦い抜いた人物が、今回取り上げるウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(以下チャーチルと表記)です。
ヒトラー率いるナチスドイツがフランスを陥落させたあとに始まった、連日連夜のザ・ブリッツと呼ばれた8ヶ月に及ぶロンドン大空襲を耐え抜き、「我々は決して降伏しない」「勝利なくして生き残ることはない」とラジオ演説で国民を奮い起たせイギリスを勝利に導いた英国首相です。
国民を鼓舞した演説、その中に散りばめられた名言、国威発揚のために戦車のネーミングに名前が使われた事など、イギリスBBC調査で偉大な英国人No.1にも輝いたチャーチルの生涯を紐解いてみたいと思います。
チャーチルの誕生と幼少期
1874年11月30日父・ランドルフ・チャーチル卿、母・ジャネット・ジェロームの長男として誕生、父は公爵家の三男でしたが、身分は平民で保守党の庶民院議員でした。
父が後の国王エドワード7世が皇太子であった時代に不興を買い、アイルランド総督として赴任したため6歳までダブリンて過ごすことになります。
1880年の総選挙に父が立候補して見事当選、チャーチル一家は再びイングランドに戻りました。
8歳で聖ジョージ・スクールに入学しますが成績は最下位、体力不足で嫌われ者の問題児だったようで、母ジャネットの教育方針とも合わなかったため他の寄宿学校へ転向、そこではそこそこの成績を修めます。
1888年3月パブリック・スクールのハーロー校を受験するも答案はほとんど書けず、学校長の判断でなんとか合格をもらいます。
青年期は軍人を目指して士官学校へ
相変わらずハーロー校でも成績は悪く、遅刻も多い問題児でしたが、軍事教練やフェンシング、水泳、射撃などは得意でした。
また成績不良の落ちこぼれクラスで英語の勉強に集中したため文章表現力が飛躍的に伸びるという副産物もありました。
ハーロー校の落ちこぼれはサンドハースト王立陸軍士官学校へ進学して軍人になるコースを選択することが多いため、チャーチルもこれを選択しますが、2度受験に失敗し、仕方なく予備校に入ってなんとか士官学校へ入学できました。
学校では騎馬科士官候補生となり130人中20番の成績で卒業、1894年英国陸軍に任官しました。
翌1895年、父・ランドルフが死去、チャーチルは家を継ぎますが家計は苦しく、金銭の遣り繰りには相当苦労したようです。
軍人としての活躍
軍人にはなったものの、世界は平和で戦争が起こる雰囲気の無い中でチャーチルはエネルギーの発散場所に困ります。
このため軍に休暇届を出して第二次キューバ独立戦争へ参加するためキューバへ赴いたりしました。
帰国後イギリス領インド帝国へ転勤、赴任後パシュトゥーン人の反乱の鎮圧戦に参加しますが、独断専行で無謀な作戦を行うため部隊から外されてしまいます。
しかし、この体験を本にした『マラカンド野戦軍物語』は評判がよく、次回作の「サヴロラ」とともに好調な販売で金銭的に苦しかったチャーチルの家計を潤しました。
1898年、近年の懸案であったスーダン問題が露、仏のエチオピア侵出気配により緊張感を帯びると英国首相ソールズベリー侯爵は派兵を決定、チャーチルはモーニング・ポスト紙と特派員契約を結んだ上で従軍、戦闘にも参加します。
戦争はイギリスがなんとか勝利しスーダン問題は解決しましたが、チャーチルが帰国後この戦争のことを執筆した「河畔の戦争」でイギリス軍を指揮したキッチナー将軍を批判的に書いたため、将軍との間に遺恨が残ることになりました。
軍人から政治家へ転身
1899年、軍を除隊して庶民院議員の補欠選挙に出馬しますが力及ばず落選します。
そのため同年、南アフリカで起こった戦争(第二次ボーア戦争)に再びモーニング・ポスト紙の特派員として従軍しますが、戦地で敵の捕虜になってしまいます。
しかしチャーチルは機転を利かした行動で脱走を試みて成功させ、連敗の続くイギリス軍劣勢の中で英雄扱いを受けました。
チャーチルは軍隊に復帰して各地を転戦、イギリス軍はなんとかヨハネスブルクやプレトリアの占領に成功し、これを機にチャーチルはイギリスへ帰国します。
ボーア戦争に勝利した勢いをかって首相のソールズベリー侯爵は解散総選挙を行います。
チャーチルはこの選挙に保守党公認候補として立候補、脱走事件で名前が売れていたため、26歳にして見事に初当選を飾ります。
政治家、ウィンストン・チャーチル
議員となったチャーチルは陸軍増強予算を計上する保守党内閣に反対して、父が行おうとしていた陸軍予算の削減に取り組み、戦費を捻出しようとして保護貿易による関税改革で税収を増やそうとした保守党執行部に対して自由貿易支持を訴え、保守党幹部に疎まれることになります。
自分の主張と異なる保守党に見切りをつけたチャーチルは自由党に移籍、1900年の解散総選挙では自由党で当選、1906年、キャンベル=バナマン内閣での総選挙でも当選し植民地省政務次官に就任、南アフリカの統治問題などを担当しました。
次のアスキス自由党内閣で通商大臣に就任、職業紹介所と失業保険制度を主導しました。
1908年9月にはクレメンティーン・ホージアーと33歳で結婚、若き有能な政治家として政界で頭角を現していきました。
ドイツの台頭とイギリスの凋落
自由党が政権を握る前の保守党政権で海軍増強の政策が開始されていましたが、自由党はこれを縮小していました。
しかし、ドイツが際限ない海軍増強を行うため、海軍大臣と外務大臣ら自由帝国主義派の閣僚はイギリスも海軍増強すべきと主張を始めます。
急進派のチャーチルや大蔵大臣は社会保障を充実すべきと主張し、政権内で対立が起こります。
この頃のチャーチルはドイツが戦争を起こすとは考えていなかったようで、ドイツ脅威論を一笑していました。
結果的には折衷案がとられて事なきを得ますが、自由帝国主義派と急進派の対立は国家予算の編成を巻き込んでイギリスの社会を二分化することになります。
1910年の総選挙で自由党は辛勝、第一党は守ったものの、アイルランド国民党と労働党の閣外協力でなんとか政権を維持する状態となります。
チャーチルは歴代2位の若さで内務大臣に抜擢され、政権運営の障害となっていた貴族院の改革を推進、1910年にもう一度、総選挙を行う異常事態を乗り気って貴族院改革を含む議会法を成立させます。
これによってイギリスの議院内閣制で下院(庶民院)の優位が確立しました。
内務大臣、海軍大臣を歴任
1910年頃から労働争議や反帝政革命による暴動やテロがイギリス国内で頻発し、内務大臣のチャーチルは日々、これらの対処に追われることになります。
チャーチルは終始、弾圧路線を維持し軍隊の投入も躊躇しませんでした。
これによってチャーチルは労働組合から嫌悪感を抱かれ、自由党は労働者からの支持を失います。
ドイツとの緊張が高まるなかで海軍大臣に就任したチャーチルは、軍艦の近代化、海軍航空隊の創設、艦船の建造を進めます。
チャーチルが海軍大臣時代に第一次世界大戦が勃発、イギリス国内は参戦反対派が多数を占めていましたがチャーチルは参戦を主張、1914年8月2日のドイツによるベルギー侵攻を機会にイギリスは参戦に大きく舵を切り、ドイツに宣戦布告をしました。
第一次世界大戦でのチャーチルの功罪
チャーチルは陸軍の大陸への輸送や装甲車や無限軌道車の新兵器開発に大きな功績を残し、特にこの新兵器開発がのちの戦車の誕生へと繋がりました。
しかし、軍事作戦ではベルギーのアントワープ防衛の失敗、ガリポリ半島への上陸作戦の失敗と戦果を上げることが出来ず、海軍大臣としてのチャーチルへの批判は最高潮に達します。
戦果の上がらないアスキス内閣が総辞職するとチャーチルはランカスター公領担当大臣へと左遷され、この職も1915年11月15日に辞職しチャーチルは陸軍少佐の立場で軍ヘ復帰しました。
しかし大隊長に任命されるも、戦死者を多く出しすぎたために解任され、結局ロンドンへ戻り執筆活動をしながら再起をはかりました。
第一次世界大戦の終結
1917年7月アスキス内閣のあとを受けたロイド・ジョージ内閣で軍需大臣として入閣したチャーチルは、1917年4月から連合国側で参戦したアメリカの援助をフルに活用し新兵器である「戦車」を大量生産して前線に投入、戦争を有利に進めます。
ロシア革命によるソ連の離脱、フランスの反戦運動など厭戦気分が高まるなかでもチャーチルは戦時体制を支持し続けました。
アメリカ参戦でドイツの劣勢が明らかになるなかで、1918年11月にドイツ革命が起きドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がオランダに亡命、フリードリヒ・エーベルト首相は連合国との休戦協定を急ぎ、11月11日、第一次世界大戦は終結しました。
第一次大戦後の復興と反共姿勢
ロイド・ジョージ内閣は戦後すぐに総選挙を実施、大勝するとチャーチルは戦争大臣兼空軍大臣に就任、イギリス兵の動員解除とソビエト成立後に勢力を伸ばしていた共産革命の拡大阻止に全力を投入します。
しかし、チャーチルの反共姿勢は労働者階級や労働党から批判を受け、植民地大臣へと転出させられてしまいます。
ギリシャとトルコの希土戦争やアイルランド独立運動、ユダヤ人のパレスチナ移住など外交問題を多く抱え、好戦的な姿勢を崩さないイギリス大連立政権は国民の支持を失い自由党は分裂、首相ロイド・ジョージは辞職します。
そして政権を引き継いだ保守党のボナー・ローは解散総選挙に打ってでますが、分裂した自由党は惨敗、保守党が圧勝し好戦的な閣僚と見られていたチャーチルも落選します。
保守党へ復帰
落選したのちカンヌへ移住し、執筆活動を再開したチャーチルはダーダネルス作戦(ガリポリ半島上陸作戦)や第一次大戦の回顧録として「世界の危機」を出版、批判も多く受けたものの本はよく売れたため相当な収入が入りました。
ボナー・ローが癌で退陣し、スタンリー・ボールドウィンが首相になり、解散総選挙が行われチャーチルも出馬しますが、台頭する社会主義の流れと出版した『世界の危機』が自己弁護との批判を受けて再び落選してしまいます。
自由党の元首相アスキスは労働党と組んで政権樹立を目指したため、反共、反社会主義のチャーチルはこれに激怒して自由党を離党すると、1924年にスタンリー・ボールドウィンへの内閣不信任案が成立、ラムゼイ・マクドナルドを首相とするイギリス初の労働党内閣が誕生、チャーチルは庶民院の補欠選挙に無所属で出馬するも再び落選します。
親ソビエト政策をとる労働党に対して反共を唱える保守党が批判を強めるとマクドナルド首相は解散に打って出ますが、ソビエトの驚異、社会主義への警戒感が強くなっていたイギリスでは保守党が圧勝し、チャーチルも政界へ復帰を果たします。
大蔵大臣辞任後の冷遇時代
保守党のボールドウィンが首相となるとチャーチルは、父が就任した大蔵大臣に指名され嬉し涙を流しました。
しかし、1929年の選挙で保守党が敗れるとチャーチルは大蔵大臣を辞任、こののちガンジーによるインド自治からの独立運動反対者、ナチスドイツの台頭への警戒による対ドイツ強硬論者、結婚問題で孤立していたエドワード8世の擁護者としてことごとくボールドウィン首相と対立したため、10年という歳月の間、閣僚に就任することはありませんでした。
ボールドウィン辞任後、首相となったネヴィル・チェンバレンにも疎まれたチャーチルはその後も冷飯を食わされ続けます。
ドイツに寛容であったチェンバレン内閣でしたが1938年にオーストリアがドイツに併合され、ハンガリーやチェコスロバキア領にも侵攻を始めるとさすがに危機感を覚え始めました。
第二次世界大戦勃発
チャーチルによるドイツ強硬論も虚しくチェコがドイツに併合されると、イギリス国内でも英仏ソ同盟締結を望む声が大勢を占めるようになりました。
しかし、チェンバレン首相はソ連との同盟に否定的であったため、ソ連はドイツとの間に独ソ不可侵条約を結びドイツが有利な立場となりました。
ドイツは1939年9月ポーランドへ侵攻を開始、閣僚からも突き上げられたチェンバレンはドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が開戦しました。
対ドイツ強硬論を唱え続けていたチャーチルはチェンバレンに乞われて海軍大臣に就任、イギリス軍のトップとしてドイツとの戦いを指揮しました。
天命が下る
海戦でも陸戦でも一進一退を繰り返す対ドイツ作戦でしたが、ノルウェー上陸作戦で惨敗したチャーチルは失脚も覚悟しましたが、世論の批判はチャーチルではなくチェンバレンに向きます。
チェンバレンは労働党との連立を模索しますが、労働党の中にもチャーチルを首相に推す声が出始め、1940年5月10日ジョージ6世からバッキンガム宮殿において大命を授かりました。
労働党も加えた挙国一致内閣を組閣したチャーチルはイギリス国内の言論統制を徹底し、ファシズムや反ユダヤ主義の人物を次々と逮捕しイギリスを対ドイツへと指導していきます。
フランスの敗北
チャーチルが首相に就任した当日、ドイツは西方電撃戦を開始、ベルギー、オランダに侵攻します。
イギリスは22万にも及ぶ陸軍をフランスへ上陸させますが、ドイツの戦車を全面に押し出した電撃戦の前に敗北を重ねます。
そしてそのわずか5日後の5月15日にフランスはドイツに降伏、派兵したイギリス陸軍にフランス陸軍の一部を加えた部隊の撤退作戦(ダンケルクの撤退)は成功を収めますが、イギリス軍の苦戦は相変わらずでした。
フランスはドイツと間に休戦協定を結び、シャルル・ド・ゴールなど一部の亡命軍人を除いて対ドイツ戦線から脱落しました。
バトル・オブ・ブリテン
ヨーロッパのほとんどがドイツに占領もしくは属国となってしまい、イギリスは完全に孤立した状況に追い込まれ、頼みのアメリカもルーズベルト大統領の選挙を控えて、対ドイツへの参戦を躊躇していました。
この状況でもチャーチルは、ヒトラーからの和平交渉を拒絶し徹底抗戦の強硬路線を貫きました。
ドイツのイギリス上陸作戦(アシカ作戦)成功の鍵を握るイギリスの制空権をめぐる戦い(バトル・オブ・ブリテン)は一進一退を繰り返しますが、イギリス空軍は制空権を渡すことなく善戦を続け、消耗戦による戦闘機とパイロットの損失に動揺したヒトラーは1940年9月17日アシカ作戦を中止しました。
チャーチルはドイツ軍の爆撃を受けた町を回り、葉巻をくわえてvictoryのVサインをして見せて国民の士気を鼓舞し、彼の人気は絶大となりました。
アメリカの参戦
アメリカ大統領選挙で三選されたルーズベルトは、1941年3月に武器貸与法を制定しイギリスに武器供与を開始、ヨーロッパの反ドイツ勢力の支援を開始します。
イギリス軍はエジプト、ギリシャのイタリア軍を撃破し、地中海の主導権を握りましたが、ドイツが戦力を投入すると瞬く間に苦戦に陥り、エジプト隣国のリビアのトブルクが陥落、イギリスのエジプト支配が揺らぎます。
しかし、チャーチルがバーナード・モントゴメリーを司令官に任命すると、息を吹き替えしたイギリス陸軍はドイツ軍を撃破、1942年11月モロッコ、アルジェリアにイギリス、アメリカ軍が上陸するとドイツ軍は敗戦を重ねることとなり、1943年5月アフリカ戦線のドイツ軍は全面降伏しました。
ソ連の参戦と日本への宣戦布告
1941年6月、ヒトラーは東ヨーロッパのソビエト占領地域への侵攻作戦(バルバロッサ作戦)を開始したため、チャーチルはソ連のスターリンに協力を約束しヨーロッパでのドイツ包囲網を形成します。
またアジアではマレー半島で日本軍とイギリス軍が衝突し日英が開戦、真珠湾攻撃を受けたアメリカも日本に宣戦布告を布告、続いてドイツ、イタリアにも宣戦布告しました。
チャーチルが希望した通り、アメリカ、ソ連が参戦しましたがイギリス軍は相変わらず弱く、シンガポールが降伏しマレー半島を日本軍に占領され、香港も陥落、植民地のビルマにも侵攻される始末で、その上セイロン沖海戦でイギリス海軍も惨敗、日本軍にインド洋の制海権を奪われてしまいました。
結局、アジア大平洋地域ではアメリカ軍及びオーストラリア、ニュージーランド両軍が日本軍の南下を阻止し、イギリス軍の出る幕はなくなってしまいました。
ノルマンディ上陸作戦と反共産主義
北アフリカ戦線で勝利をおさめたイギリス軍はシチリア上陸作戦を敢行、連合国の執拗な攻撃にムッソリーニは国民の支持を失い失脚、イタリアは連合国と講和しますが、イタリアにドイツ軍が侵攻し連合国軍は惨敗を喫します。
1944年6月6日、アメリカ軍アイゼンハワー元帥はノルマンディー上陸作戦を決行、8月にパリを解放しドイツを追い詰めました。
ドイツ崩壊を確信していたチャーチルは、ナチスやファシズムなきあとに来るだろう共産主義を警戒し、ギリシャ占領後に共産主義勢力であったギリシャ人民解放軍を弾圧、ユーゴスラビアのチトー大統領とは共産化しない約束を交わしました。
1945年2月のスターリン、ルーズベルト、チャーチルのよるヤルタ会談が行われ、戦後の取り決めがなされます。
4月にはドイツが全面降伏、ヨーロッパ戦争は終結しました。
大英帝国の没落と反共主義
戦争には勝利したイギリスでしたが、北アフリカ、東南アジアの植民地はほとんどが独立してしまい、海外投資も激減し戦前の威光は見る影もなくなってしまいました。
1945年6月、約10年ぶりに庶民院を解散して総選挙を行ったチャーチルでしたが、労働党の躍進で政権交代、チャーチルは首相を辞任しました。
政権を去ったチャーチルは執筆活動に戻り、全六巻の「第二次世界大戦」を出版、大ベストセラーとなり莫大な印税を手にしました。
またこの本が認められてチャーチルはノーベル文学賞を受賞しています。
労働党が政権を握って以降は世界的に共産主義、社会主義が台頭、中国では毛沢東率いる中国共産党が政権を握り、東ヨーロッパの大半はソビエトの傘下に組み込まれ、朝鮮半島では南北で国を二分した内戦が勃発しました。
アメリカやイギリスなどの自由主義国はこれに対抗する必要性に迫られ、チャーチルが1946年3月にアメリカ・ミズーリ州で「鉄のカーテン」の演説を行い、アメリカ大統領のトルーマンもトルーマンドクトリンによって反共政策を決定しました。
このときチャーチルが共産主義に対抗するために考えたヨーロッパ合衆国構想は西欧同盟、欧州評議会、北大西洋条約機構(NATO)へと発展、現在はEU(ヨーロッパ連合)として巨大な政治、経済統一連合が形成されています。
2019年3月にチャーチルの母国であるイギリスがEU離脱の協議を行っているのはなんとも皮肉としかいいようがありません。
チャーチルの最後
1950年2月の解散総選挙で労働党と保守党の議席差は17まで縮まり、労働党は政権運営が困難になります。
首相のアトリーは翌年の1951年10月に再び解散総選挙に討って出ましたが、保守党が過半数の議席を確保しチャーチルは首相に返り咲きました。
しかし、77歳のチャーチルは心臓発作を起こすなど健康面に不安を抱えており1955年、あとをアンソニー・イーデンに託して首相を辞任、伯爵位の授与を拒否して庶民院議員を続けました。
この後は政治の表舞台にほとんど立つことなく、1964年1月24日永眠しました。享年90歳、波乱の時代に大英帝国の舵を取った男の大往生でした。
演説について
チャーチルと言えば、その勇ましい演説でイギリス国民の士気を鼓舞し瀕死の祖国を何度も立ち直らせました。
ここではチャーチルの有名な演説を紹介します。
初めて首相に就任したとき、庶民院で多くの議員を前にして語った演説です。
イギリス陸軍がダンケルクからの撤退に成功した後の演説
首相
チャーチルは1940年と1951年の2回、イギリスの首相となり、特に1940年から1945年の第一次チャーチル内閣は第二次世界大戦真っ只中での就任で、厳しく難しい舵取りを行うことになりましたが、持ち前のバイタリティーと傲慢さ、頑固さで難局を乗り切り、イギリスを勝利に導きました。
ただ、イギリス軍がドイツ軍よりも弱かった事を別にしても、イギリス軍の最高司令官としてはほとんど効果的な勝利をあげることはなく、軍人としての才能はなかったようです。
戦車
第二次世界大戦中にイギリス陸軍に配備されていた戦車をチャーチル歩兵戦車と呼びます。
アメリカのゼネラルモーターズ傘下のボクスホールが生産しており、1941年から配備が開始されました。
ただ、あまりにもエンジンに馬力がなく人が歩くのと同等の速度しかでなかったのですが、悪路の走破能力が高く、また大口径の砲弾でしか破ることのできない重装甲だったため、戦場では意外と活躍し大量に生産されました。
この戦車は国威発揚のために時のイギリス首相チャーチルの名前が与えられ、チャーチル歩兵戦車と名付けられました。
チャーチルの名言
最後にサー・ウィンストン・チャーチルの名言をいくつかご紹介して終わりにしたいと思います。
魂が奮い立つ言葉が多いので、落ち込んだとき、難問にぶつかったときに思い出してください。
そして、政治家ではないチャーチルの名言を最後にします。