与謝野晶子は明治から昭和にかけて活躍した歌人、作家です。
日露戦争を批判した長詩「君死にたまふことなかれ」や歌集「みだれ髪」は与謝野晶子の代表作とされています。
そんな与謝野晶子の生涯と代表作品「君死にたまふことなかれ」や短歌、また与謝野晶子の作品の特徴などを解説していきます。
与謝野晶子の生い立ち
与謝野晶子は明治11年(1878)12月7日、現在の大阪府堺市堺区である堺県和泉国第一大区甲斐町の父・鳳宗七と母・津祢の三女として誕生します。
父・鳳宗七は老舗和菓子屋「駿河屋」を営んでいました。
9歳で漢学塾に入り堺市立堺女学校に入学します。
11歳、12歳になった頃から兄の影響を受け『柵草紙』や『文学界』を読むようになりました。
20歳になると実家の店番をしながら、短歌をつくるようになり浪華青年文学会に参加します。
明治33年(1900)に行われた歌会の際、歌人・与謝野鉄幹と不倫関係となり、歌人・与謝野鉄幹が刊行した『明星』に短歌を発表しました。
『みだれ髪』の発表
その翌年、実家を出た与謝野晶子は東京に移り住むと処女歌集となる『みだれ髪』を出版します。
女性の思想表現が制限されていた時代において、肉体の謳歌、官能の賛美など特徴ある短歌が収録され、このような題材を詠ったことに対し賛否両論を巻き起こしました。
その後、不倫関係であった歌人・与謝野鉄幹と結婚し、のちに子供を12人出産します。
代表作『君死にたまふことなかれ』を発表
明治37年(1904)9月『明星』で『君死にたまふことなかれ』を発表します。
この作品は、発表の半年前、日露戦争の旅順攻囲戦に予備陸軍歩兵少尉として従軍した弟・鳳壽三郎を嘆いた詩です。
3連目に詠われた「すめらみことは戦いに、おおみずからは出でまさね」は、天皇は自ら戦地にはいかない。といった意味で、日露戦争を詩で批判しました。
当時、過剰な言論弾圧はされておらず、与謝野晶子の他にも、詩人・白鳥省吾や社会運動家で作家の木下尚江などが、日露戦争を批判した詩を詠んでいます。
戦争批判を詠った『君死にたまふことなかれ』が発表されると、詩人・大町桂月は戦争批判を詠う与謝野晶子を痛烈に批判しました。
反戦家として一貫性はなかった
このように反戦歌を詠った与謝野晶子でしたので「嫌戦の歌人」と印象付けられました。
しかし、明治43年(1910)に起こった第六潜水艇の沈没事故の際、与謝野晶子はこの事故で殉職した佐久間艇長を思い「海底の、水の明りにしたためし、永き別れの、ますら男の文」と詠いました。
また第一次世界大戦の際には「いまは戦ふ時である、戦嫌ひのわたしさへ、今日此頃は気が昂る」と戦争賛美を詠っています。
他にも戦争を賛美した歌を歌っていることから、与謝野晶子は反戦家として一貫性はありませんでした。
女性教育の必要性を訴える
明治44年(1911)になると、日本で初となる女性文芸誌『青鞜』創刊号に詩を寄稿します。
明治41年(1908)に夫・与謝野鉄幹が刊行していた『明星』は廃刊となっていました。
それ以降、不振続きであった夫・与謝野鉄幹を慰めるために、明治44年(1911)パリへと旅行に出かけます。
同年5月5日、与謝野晶子と夫・与謝野鉄幹がパリへ旅立つ様子を読売新聞が「新しい女」の連載の第一号として掲載しました。
翌年の6月には『中央公論』で与謝野晶子の特集記事が組まれます。
9月21日に日本へと帰国した与謝野晶子は、2年後、『巴里より』の中で女性教育の必要性などを述べました。
大正10年(1921)になると男女平等教育を掲げ、日本で初めての共学である文化学院を創設しました。
与謝野晶子の最期
与謝野晶子と夫・与謝野鉄幹には11人の子どもがいましたが、夫・与謝野鉄幹だけの収入はあてにならず、与謝野晶子は多くの仕事を引き受け、5万首にも及ぶ詩を残したとされています。
昭和15年(1940)5月、脳出血のため右半身不随となった与謝野晶子は昭和17年(1942)1月4日に意識不明となり、狭心症に尿毒症を併発し同年5月29日に63歳で亡くなりました。
与謝野晶子の有名な代表作
与謝野晶子は『君死にたまふことなかれ』の他に、代表作『みだれ髪』を残しています。
『みだれ髪』は明治34年(1901)に発刊されました。
当時、女性自らが恋愛感情や性愛を表現することは受け入れられていませんでした。
しかし、そのような時代に与謝野晶子は女性の恋愛感情を素直に表現した詩集『みだれ髪』を発表します。
当然、恋愛観を女性自らが表現することを善しとしない人から批難を受けることとなりましたが、詩人・上田敏は芸術面で高く評価し、新たな文学が誕生した。と与謝野晶子を評価しました。
『みだれ髪』に収録される有名な短歌
この『みだれ髪』に収録されている短歌をいくつかご紹介いたします。
その人は20歳。髪を櫛を梳けば、流れるようにゆらぐ黒髪。その誇りに満ちた青春はなんと美しいことよ。という意味です。
朧月の夜、清水へ行こうと祇園を歩くと月も桜も美しい。私の心が浮き立っているせいか、今宵、会う人はみんな美しく見える。といった意味です。
仏の道を教えるあなたは、柔らかい肌をした私の気持ちや体に触れなくて、寂しくはないのですか。という意味で、与謝野晶子が僧侶に恋をした時の気持ちを短歌にしたとされています。
最後に
与謝野晶子は女性が自らの恋愛観や思想を詠うなど考えられもしなった時代に囚われることなく『みだれ髪』、戦争批判にも恐れず『君死にたまふことなかれ』を発表しました。
このことによって与謝野晶子は読売新聞に「新しい女」として取り上げられ、女性の活躍が一般的でなかった時代に、女性教育の必要性を唱えます。
現在、男女関係なく教育を受け、自らの思想を発することができるのは、与謝野晶子や女性の権利獲得に奔走した平塚らいてうなどの活動があったからこそなのです。